2005年から12年間をサンフレッチェで過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。

 共に紫のユニホームを着たチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を、広島アスリートマガジンの連載『エースの証言』で振り返っていく。

 今回は、広島県出身で、ジュニアユースからサンフレッチェ広島の育成組織でプレー。2006年にトップチームへ昇格し、2010年までサンフレッチェ広島で活躍した、槙野智章をフォーカスする。

広島時代、吉田練習場でトレーニングをする槙野智章(2006年撮影)

◆有名になるためではなく、サンフレッチェのため

 マキといえば得点後のゴールパフォーマンスや、勝利後の『サンフレ劇場』を思い出す方も多いでしょう。マキが中心になり、(柏木)陽介や(森脇)良太などの若い選手が実践してくれて、どちらかというと真面目だったサンフレッチェのイメージは大きく変わりました。

 そこには、スタジアムに見に来てくれる人たちにプレーだけでなく、パフォーマンスも含めて楽しんでもらいたいというマキの思いがありました。僕も最初はそんなことよりもプレーが大事だと思っていましたが、周囲の批判的な意見も含めてマキが背負ってくれたおかげで、どうしても大都市のクラブと比較して注目度が低かったサンフレッチェは、たくさんの人たちに知ってもらうことができたと思います。

 2010年にマキと僕で考えて決めた『トリックPK』(※)も、考えは同じです。最初は普通に蹴る方がいいと思いましたが、普通に蹴っていたら話題にはならなかったでしょう。積極的にメディアに登場することも含めて、マキは自分が有名になるためではなく、いろいろな人を巻き込みながら、サンフレッチェのためにやっていました。口で言うのは簡単ですが、実際に行動するのは大変でエネルギーがいることなんだと、多くの人に伝えたいです。

 2010年限りでサンフレッチェを退団してケルン(ドイツ)に移籍する前にも、たくさん話しをしました。2012年に帰国して浦和に加入しますが、サンフレッチェに帰りたくなかったわけではないと思います。キャリアのタイミングでそういう決断になっても、マキがサンフレッチェに残したものは変わりません。マキは浦和でも同じように、たくさんの人を巻き込みながらクラブを引っ張っていましたね。AFCチャンピオンズリーグで2回優勝するなどタイトルも獲得し、最後は2022年、退団が発表された後の天皇杯決勝で、優勝に導く劇的な決勝ゴールを決めた。あんな劇的な置き土産を残してクラブを去るなんて、普通の選手にはできません。

 神戸に移籍した昨季限りで現役を引退しました。発表される前から「やめようと思っています」と聞かされていて、先に引退した僕はセカンドキャリアのことや、指導者ライセンスのことなどを質問されました。今季から解説者として同じ番組に出演していると、不思議な感じがしますね。2人がずっとサンフレッチェでプレーしていたら、一緒に出演することはなかったかもしれません。地元の広島を離れたマキが、いろいろな経験を積んできたからこそ、ですね。

 たくさんの人にサッカー、Jリーグの魅力を知ってもらいたいというマキの思いは、今も変わらないと思います。エピソードを紹介するとき、話を大げさにして『盛る』癖があるので、時々注意しなければいけないですけどね(笑)

 過去にこの広島アスリートマガジンの連載で取り上げたチバちゃん(千葉和彦)と同じように、マキは僕や周囲のみんなにとって太陽のような存在です。周りを明るく照らし、ポジティブな考えにしてくれる。良いエネルギーをもたらしてくれるんです。いろいろな人を巻き込むエリアを全国に広げて、これからも2人でサッカー界を盛り上げていきたいと思っています。

2010年のJ1リーグ開幕戦でサンフレッチェはPKを獲得し、槙野がボールをセットして蹴るかと思わせておいて、佐藤が蹴って成功させた(得点は認められたが、本来は反則で、認められるべきではなかったと後日発表された)。その後のAFCチャンピオンズリーグでは、佐藤がPKを短く横に蹴り、走り込んできた槙野が蹴り込んでゴールを決めた。

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