11年の在任期間に、4度のリーグ優勝、3度の日本一。今もなお、名将と語り継がれる・古葉竹識が語る監督論には、一貫した哲学が垣間見えた。2013年の本誌インタビューから、監督の在り方を再度見つめる。

左から衣笠祥雄、山本浩二、古葉竹識監督

◆次代を担う選手の育成と、ユーティリティプレーヤー

 シーズン中は、スカウトの方とグラウンド上で定期的に話し合いを持っていました。そこでは「来年以降はこのポジションを補強する必要がある」など、常に2、3年先を見据えてチームづくりをしていました。

 そして次に、相手5チームとの比較が常に大事になってきます。ベンチには投手が8人前後入ります。それを相手チームと比較したとき、『3人は勝っているけど、5人は劣っているな』という状況になれば、シーズンを通じてその3人での勝ち星しか計算が出来ない。相手の5チームよりも、最低でも5人くらいは上回らないといけないのです。そうでなければ、チームを優勝に導くことが難しくなってきます。

 打線もそうです。1番から8番まで8人野手がいますよね。例えば、そのうち4人が相手チームと同レベルの選手であった場合は、五割程度しか勝てない訳です。ですから1人でも多く、他チームよりもレベルの高い選手をつくり上げていくことが大事になってきます。

 常に相手との比較で、弱い部分をいかにして強くしていくかを考えていました。これも全て監督の責任となるわけです。私の時代であれば、山本浩二、衣笠祥雄が昭和50年の初優勝を境に、ようやく主力としてチームの柱となってくれました。

 そして、2人に続く選手をつくっていかなければならなくなりました。例えばその時代にショートを守っていた三村敏之の動きが少し衰えてきたとき「次のショートをつくらなければならない」ということになりました。

 そこで投手として入団してきた髙橋慶彦を「1年、2年掛けてでも次世代のショートにつくり上げていこう」というチーム方針となりました。それにより、慶彦は猛練習によってスイッチヒッターとして成功しました。これは後に続く山﨑隆造、正田耕三といった後輩たちに、良い伝統として続いていったのです。

 さらにチームの中で大事になってくるのが、どこでも守ることのできるユーティリティプレーヤーです。当時は17人しか野手はベンチに入れず、そのうち8人はグラウンドに出ています。そうすると残りの9人の選手たちがどこでも守ることができれば、レギュラーの選手たちに何かアクシデントがあったときに、チーム力を極力落とすことなく対処することができるのです。

 例えば「ここでピンチヒッターを使いたい」と思っても『後に守る選手がいない』ということになれば、采配を躊躇してしまいます。ですが、ベンチに穴埋めしてくれる選手がいれば、迷いなくゲームを進めることが出来るのです。

 そんな控えの選手もプロですから、評価は『試合に出てなんぼ』です。いくら130試合ベンチに入っていても、球団は「ベンチにいただけか」と、評価はしてくれないのです。だから僕は「試合に出て、少しでも給料を上げてもらうよう、頑張っていこうじゃないか」とベンチの選手たちに声を掛けていました。監督として、控え選手たちのモチベーションを上げていくというのも、大切な仕事になってくるでしょうね。

古葉竹識/こば・たけし

 1936年4月22日生、熊本県出身。1958年にカープに入団すると、1年目からショートのレギュラーに定着。1963年には長嶋茂雄と激しい首位打者争いを繰り広げ、打率.339をマーク。また2度の盗塁王を獲得するなど俊足好打の内野手として活躍した。引退後、1974年にコーチとしてカープに復帰すると、1975年にルーツ監督の後を継いで5月に監督に就任。その後快進撃を見せ、球団創設26年目の初優勝を果たした。以後も1985年まで指揮を取り、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。1999年に野球殿堂入り。

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