1977年〜1998年までの22年間、カープ一筋の野球人生を送った大野豊氏。カープ創設70周年を記念したレジェンドインタビューでは、自らの野球人生を大いに語っていただいた。第2回目の今回は、大野氏の野球人生を語る上で外すことのできない、あの左腕とのエピソードに迫る。

大野豊氏がプロ2年目の1978年、南海から移籍してきた江夏豊氏との出会いは野球人生を大きく変えることになった。

 入団2年目の1978年に私の〝師匠〟である投手と出会い、野球人生の転機を迎えました。その投手とは、同年カープに移籍してこられた江夏豊さんです。私は社会人時代に背番号28をつけ、そしてバッテリーを組んでいた捕手の背番号は22。阪神の江夏さんと田淵幸一さんのバッテリーに憧れて野球をしていたくらいでしたし、同じ左投手としてまさに雲の上の存在とも言える人でした。

 プロ2年目のキャンプ時に古葉竹識監督は江夏さんに対し「大野を見てやってくれないか」という話をしたそうです。また同じ左腕、同じ豊という名前、諸々がきっかけとなり江夏さんから指導していただくようになったのですが、とにかく当時は必死でした。江夏さんの前では直立不動になるほど緊張していましたが、江夏さんの言う事を守っていれば強くなれる、うまくなれるという思いを強く持っていました。1年目の初登板の経験もあっただけに、とにかく何かを変えなければならないと思い、必死に食らいついていきました。

 江夏さんから指導していただいたことの中で、最も印象に残っているのは「キャッチボールを大切にしろ」ということです。また「投手というのはマウンドに上がればその試合を任されているということなのだから下を向いたり弱気な姿勢を出すな。どんな状況でも堂々とした投球をしろ」と言われていました。

 江夏さんご自身は阪神時代のように速球で押す投球ではなくなっていましたが、“江夏豊”という名前だけでも相手を威圧する存在感、風格を備えていましたし、抜群の制球力を持っていました。当時は『目で見て学べ』という時代だったので、とにかく江夏さんの一挙手一投足を見て、何かを学ぼうとしていました。