2023年6月16日に流れた突然の訃報は、多くの悲しみに暮れ、大エースの残した偉業を振り返った。入団以来、常にエースの側でその姿を見続けてきた左腕。歳は2つしか違わなかったが、新人との実力は歴然だった。共に猛練習に耐え、汗を流し、酒を酌み交わし、やがて二人はライバルとなった。

荒れ球が持ち味の川口と、コントロールを重視する北別府は対照的なタイプの投手だった

仏頂面とは違う 笑顔の北別府さん

 私がプロ入りした1981年には、北別府さんはすでにカープのエースでした。その年、北別府さんは16勝、1982年に20勝で最多賞。1978年から11年連続二桁勝利という投手でした。それに加え通算213勝は、カープで1番勝っている投手です。次に多い長谷川良平さんが197勝。長谷川さんや北別府さんは、カープの一時代を支えられた投手です。その方と一緒に歩めたというのは、非常に誇らしく思っています。

 たくさんの思い出がありますが、まず当時の選手寮である「三省寮」での暮らしです。僕が寮に入った時は、 各部屋2人ずつで構成されていて、僕は長嶋清幸と同じ部屋でした。そこには一軍の選手もおられたので、北別府さんと(髙橋)慶彦さんが1人部屋でした。
 私より2つ歳上の北別府さんは近寄りがたいというか、駆け出しでしたのであまり言葉を交わすことができませんでした。当時の私の感覚としては仏頂面でちょっと怖くて、入寮時は本当に近寄れない存在だと思っていました。

 入団3年目、私は15勝することができたのですが、前年の1982年の私の成績は4勝5敗でした。その年の夏くらいから一軍に上がり、当時の古葉竹識監督から、『とにかくローテーション投手になってくれないと困るよ』と言われて。一軍に定着するようになった時期あたりから、北別府さんと接する機会が少しずつ増えました。
 そうしているうちに、すごく心を開いていただいて、寮の北別府さんの部屋にちょくちょくお邪魔するようになりました。寮ではお酒が禁止だったのですが、一人部屋の北別府さんの部屋には冷蔵庫があって、お酒を飲ませてもらったりもしました。当時、寮長をされていた木下強三さんに『分からんよう飲んどけ、大っぴらに飲むなよ』と言われたり(苦笑)。
 球場へ行く時には、車に乗せてもらったりもしましたが、当時アメ車のすごい大きな車でした。『おい、行くぞっ』と言われて『はいっ』とすぐに返事をして、球場まで隣に乗せていただいたりもしました。

 

 北別府さんは表向きはちょっと気難しい雰囲気でしたが、親しくなった人には緊張が解けて、飲みながら一緒にテレビを見て、ああだこうだ言いながら、いつもの仏頂面とは違う笑顔で会話していることが多かったです。
 当時、先発投手は中5日でしたから、5日間はベンチに入らなくてもいいことがあったので、一緒に寮へ帰って、野球を見ながら北別府さんの話を聞いていました。北別府さんから『おい、釣りに行くぞ』と言われ、共通の友人とよく釣りにも行っていました。北別府さんは、僕の兄貴分みたいな存在でした。

 3年目のキャンプのときだったかな『おい、ちょっと付き合えよ』と言われ、鹿児島の実家に連れて行かれて、ご家族と一緒にご飯を食べて、一泊させていただいたりもしました。僕の後に、津田(恒実)が入団するのですが、津田もすごく可愛がってもらっていました。3人でよく遊んだりもしましたね。
 当時の広島カープの投手は、すごくみんなが仲良くて、投手会というピッチャーだけの集まりがありました。投手会のみんなで積み立てをしたお金で、シーズンオフには、福岡のゴルフ場で泊まりがけのゴルフコンペを開いて楽しんでいました。

川口和久●かわぐちかずひさ
1959年7月8日生、鳥取県出身。鳥取城北高-デュプロ-広島(1980年ドラフト1位)-巨人(1995〜1998)。高校時代から注目の左腕として騒がれたが、社会人野球へ進む。1980年ドラフトで原辰徳を外した1位でカープから指名を受けプロ入り。古葉竹識監督からも高い評価を受け、北別府学氏らとともに投手王国の一時代を築く。左腕投手としては珍しいスイッチヒッターとして打席に立った。現在はプロ野解説者をしながら、地元の鳥取で農業やスポーツ振興に力を注いでいる。

 
広島アスリートマガジン8月号は、「追悼特別特集 北別府 学 ありがとう 20世紀最後の200勝投手」カープが誇る大エース北別府学氏が残した偉業の数々を振り返りながら、強いカープを共につくりあげた仲間たちが語るその姿をお届けします。