2005年から12年間をサンフレッチェ広島で過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。共に紫のユニホームを着た数々のチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を振り返っていく連載企画。

 今回は、2006年から2007年まで広島でプレーした、ブラジル人FW・ウェズレイとの思い出を振り返る。(全2回・後編)

ニックネームはポルトガル語で『猛犬』を意味する〝ピチブー〟だった。

◆計63得点、多くのアシスト。歴史に残る結果を残した

 ミシャの練習はハードでしたが、ウェズレイは真面目に取り組み、お互いを尊重する2人は最初から良い関係を築いていました。リーグ再開初戦では開幕戦と同じくウェズレイが2得点、僕が1得点を挙げて、今度は3ー2で勝利。ここから連係がさらに良くなって得点を重ね、チームの勝ち点も伸びていきました。

 ウェズレイは『助っ人』ストライカーで、得点数で評価されますから、ゴールへのこだわりが強いだろうと思っていました。でも常に「もう俺は得点王になっている。次は寿人が得点王になるんだ」と言ってくれて、実際に試合でもパスを出してくれる。ウェズレイがドリブルで進んで相手2人に囲まれ、『こっちは見えていないだろうな』と思ったら、振り向きざまにパスを出してくれ、難なく決めたゴールもありました。

 結局この年は僕が18得点、ウェズレイは16得点を挙げ、チームも尻上がりに調子を上げてリーグ戦は10位。ミシャのサッカーは魅力的で、今後への期待が膨らむ中でシーズンを終えました。

 2007年のリーグ開幕戦、僕とウェズレイが2得点ずつ決めて4ー2で勝つ好スタートを切ると、13試合を終えて僕が7得点、ウェズレイは11得点を挙げ、チームも7位につけていました。このままいけば2人とも前年以上にゴールを決めて『チームも上位を狙えるぞ』と確かな手応えを感じていました。

 ところが、その後は2トップへのマークが厳しくなり、思うように得点できなくなりました。僕は7月に日本代表のアジアカップに出場したので、帰国後の夏の連戦は疲労もあってコンディションが上がらず、第19節から11試合ノーゴール。これほど長く得点から遠ざかったのは、ほとんど経験がありません。

 そんなときでもウェズレイは「次の試合では決めよう」と声を掛けてくれて、最終的に僕は12得点、ウェズレイは17得点を挙げましたが、チームは負のスパイラルから抜け出せませんでした。最後は京都との入れ替え戦で敗れ、J2降格となってしまいます。年末、退団が決まってブラジルに帰国するウェズレイを広島駅まで見送りに行ったときは、寂しさや悔しさで泣いてしまいました。

 翌2008年、ウェズレイが大分でナビスコカップ(現ルヴァンカップ)優勝に貢献したときは、さすがだと思いました。のちにチュンソン(李忠成)と一緒に先発するようになった2011年、シーズン途中から「得点王を取らせたい」と発信していたのは、自分も年齢を重ねたときに、ウェズレイのような振る舞いをしたいと思っていたからです。

 一緒にプレーしたのは2年間だけですが、2人で計63得点を挙げ、それぞれへのアシストも多い。2年目はJ2に降格したとはいえ、Jリーグの歴史に残る結果を残した2トップだと自負しています。練習ではハイレベルなプレーを間近で見せてくれる最高のお手本・教材であり、試合ではお互いを引き立てながら、どちらもゴールを決める。ウェズレイは間違いなく、最高のパートナーでした。