1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。没後32年、33回忌を迎えた今年、改めて津田氏が残した功績を関係性の深いOBのエピソードとともにお届けする。現役時代ともにブルペンを支え続けた紀藤真琴氏が、最後に津田氏と対面した日を振り返った。(全2回/第2回)
◆津田さんに会った、最後の日
津田さんがカープを退団され、闘病生活をされている時期にお見舞いに行かせていただいたことがあります。
あの時、一時退院されて福岡市内でご家族と一緒に生活されていた時期でしたが、他の方と一緒に行くと津田さんとゆっくりお話しができないと思って、私1人で広島からお伺いしました。実際にお会いすると、痩せ細っておられて……正直「本当にあの津田さんなのか?」と思うくらいでした。その日、ご自宅にはたまたま津田さん1人だったのですが、「よう来たな」と言ってくれて、お宅に招いていただきました。
津田さんは「俺はトレーニングをして、もう1回復活して野球をやるからな」とお話ししてくれました。闘病中でしたが、会話している時にわざと、おならをして私を笑わせようとしてくれたり……津田さんらしさは変わりませんでした。あの時の津田さんの姿にショックを受けて、帰りに泣きながら広島に帰ったことをよく覚えています。
結果的に津田さんとお会いして話ができたのは、それが最後となりました。今振り返ってみても、あの時私1人でお会いできて本当に良かったと思っています。
私は現役選手として19年間プレーさせていただきましたが、津田さんの姿を見ているからこそ、少々痛い箇所があったとしても、苦しい事があったとしても、頑張ってこれた部分が大いにあります。
中日時代に後輩投手が気の緩んだ発言をしていたら、「俺の先輩で津田さんという投手がいた。先輩は脳腫瘍で頭が痛くても投げていたんだ。投げたくても投げられなかったんだぞ」と怒ったことがあります。現役引退後は指導者として野球界にお世話になりましたが、楽天コーチ時代にも、気が緩んだ投手がいたら津田さんの話を例に出すことも度々ありました。高校の監督を務めていた時期もそうです。
津田さんとの思い出、教わった事を自分だけのものにせず、「プロ野球界にはこういう先輩がいたんだぞ」と、若い選手たちに津田さんを伝えられたことに幸せを感じました。
野球選手には、二通りあると思っています。記録を残す人と、人々の記憶に残る人。津田さんはまさに後者です。どれだけの人たちにインパクトを与えたかを考えると、実績を見ても人間性を見ても当然だと思います。
私にとって、津田さんはすごく影響力のある人です。津田さんと一緒に野球をやらせていただいたことは、私にとって本当に幸せな時間でした。
■紀藤真琴(きとう・まこと)
1965年5月12日生、愛知県出身
1983年ドラフト3位でカープ入団。主に中継ぎとして一軍定着すると1989年にはリーグ最多の61試合に登板し、最優秀救援投手に輝いた津田恒実と共にブルペンを支えた。1994年に先発に転向して16勝を記録し、エースとして活躍。2001年以降は中日、楽天でプレーし、2005年引退。その後は楽天、台湾プロ野球でコーチを歴任し、2019年には水戸啓明高の監督を務めた。