メジャー4年目の鈴木誠也が好調だ。現在ナ・リーグ中地区の首位を走るカブスのなかで、本塁打数チームトップ、打点数も77打点と連日活躍している。

 振り返ると、カープから海を渡った日本人選手は4人。メジャー移籍第1号は黒田博樹、そこから高橋建、前田健太と投手陣が続いた。ここでは、海を渡り活躍した選手たちのインタビューを再編集して紹介する。今回は、2009年にカープからメッツへ移籍した左腕・高橋建(現・カープ二軍投手コーチ)の、カープでの奮闘を振り返る。(掲載は2010年11月号)

現在はカープ二軍投手コーチを務める高橋建

◆波乱万丈のプロ野球人生を歩んだ左腕

 いつの時代も、左腕投手は貴重な存在だ。かつてカープの黄金期には江夏豊、大野豊、川口和久、清川栄治ら球史に名を残すサウスポーが名を連ねていた。ところが1991年の優勝を境にチーム状態が低迷し始めると、以降は慢性的に左腕不足が叫ばれるようになった。入団3年目以降はBクラスが定位置という状況下で、孤軍奮闘を見せたのが高橋建である。

 小学4年生のときに野球を始めた高橋は、学生時代は主に投手としてよりもバットで才能の片鱗を見せていた。持病の喘息に悩まされながらも、長距離砲として頭角を現し名門の横浜高に進学。もちろん投手としても名将と名高い渡辺元智氏に素質を見込まれ、石井琢朗(足利工高)目当てにスカウトが集まるような注目試合で先発を任されることもあった。

 転機となったのは、拓殖大4年生のときに本格的に投手へと転向したことだ。

 150キロを超える球を持つ左腕は、そうはいない。トヨタ自動車への入社以降は逆指名の誘いが8球団を数えるなど、プロからも注目を集める存在となっていった。しかし都市対抗や日本選手権で結果が出なかったこともあり、会社側は高橋のプロ入りに難色を示した。納得できない気持ちを抱えながら、高橋はトヨタの意向に沿う形で会社に残留した。

 ところが、この選択が後に彼自身の首を絞めることになる。入社3年目に左肩を痛めたことで、8球団のスカウトは潮が引くように去っていった。社会人2年目の秋にプロ入りしていれば……。25歳という年齢を考えれば、翌年のドラフトを待つというのも現実的な話ではなかった。

 しかし、ここで思わぬ幸運が舞い込んだ。カープで大野と共に先発の柱として活躍していた川口が、1994年11月8日に球団初のFA権の行使を宣言。快速左腕の穴を埋める存在として急遽、カープが白羽の矢を立てたのが高橋だった。同年のドラフト会議が開かれたのは11月18日。まさに急転直下のプロ入りだった。

 カープ入団後は先発、中継ぎを問わず息の長い活躍を見せた。入団3年目以降はすべてBクラスという低迷期において、高橋自身は通算70勝をマーク。これは左腕としては球団4位の記録だ。2008年には巨人を相手に、わずか102球で完封勝利。大野に次ぐ球団2位の高齢完封記録(39歳0カ月)を樹立すると、同年のオールスターにも選出された。39歳2カ月でのファン投票での選出は、当時の最年長記録だった。

 30代半ばからは左膝の手術など、対戦相手だけではなく故障との戦いも余儀なくされた。それでも高橋はその都度復活し、2009年にはニューヨーク・メッツと契約。40歳にしてメジャーのマウンドも経験した。中継ぎとして28試合に登板し、防御率2.96の記録を残した。2010年にカープに復帰すると、惜しまれつつ同年現役を引退した。「建さん」と呼ばれ誰からも愛された左腕は、現在は二軍投手コーチとして、若鯉たちの育成に尽力している。

■高橋建(たかはし・けん)
1969年4月16日生、神奈川県出身
横浜高ー拓殖大ートヨターカープーメッツーカープ(2010年現役引退)
1994年ドラフト4位でカープに入団。先発ローテーションの一角として活躍し、2009年にメッツへ移籍すると28試合に登板し防御率2.96をマークした。2010年のカープ復帰後は中継ぎとして活躍。同年、現役を引退した。現在はカープ二軍投手コーチを務めている。