1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。
第1回目の特集は、黒田博樹のインタビューセレクション。
広島とニューヨーク、ふたつの街に愛された男、黒田博樹。揺るぎない信念と覚悟を胸に、日米で活躍したその足跡は、今なお多くのアスリート、ファンの心に残り続けている。過去、広島アスリートマガジンに掲載された独占インタビューを再構成し、黒田博樹さんの言葉に込められた思い、生き様を改めて紐解いていく。
ここでは、プロ1年目の1997年当時の本誌初インタビューを紹介(アスリートマガジン 1997年9月号掲載)。専修大学時代、自信を深めた球速にまつわるエピソードを恩師の証言とともに、プロ入りまでの成長ぶりが記されている。
高校時代、プロからの誘いがあった澤崎(俊和・同期入団のドラフト1位)に対し、黒田はほとんど無名に近い存在だった。上宮高校では二番手、三番手の投手。公式戦での実績はほとんどといっていいほど、なかった。
だが、その黒田は専修大学のセレクションで、その大器の片鱗をのぞかせる。
「一瞬で、その将来性を感じました。ちょうど、大学の先輩にあたる岡林(洋一・元ヤクルト投手)のようになれる素材だと」
こう振り返るのは、当時の専修大学野球部監督の望月(教治)氏。こうして黒田は専修大学へと進学した。だが、気になるのは大学の監督を一目で唸らせるものを持ちながら、なぜ、彼は高校時代無名のままでいたのか。それについて上宮高校の山上(烈)監督は黒田について、望月氏にこう言っている。
「ハートが弱い」と。
つまり、ブルペンでの力を十分に発揮できないタイプだったのである。これを聞いた望月氏は「黒田にはとにかく経験を」と考えた。また、同時に「多少なりとも目をつむって起用しないと」とも考えた。2年生になると、1学年上の小林(幹英・三軍育成強化コーチ)とチームの主軸としてリーグ戦に登板。だが、自分の力を発揮できない姿があった。それでも監督は黒田を起用し続けた。
そして迎えた3年の春。望月氏は黒田にさらに上のレベルを要求する。小林に次ぐ二番手として登板していた黒田を、一番手として先発へ指名するようになったのだ。
まだまだ、力不足とも言えた黒田を、より成長させるための起用だったのかもしれない。だが、黒田の器は大きかった。こういった起用を繰り返していくうちに、2試合に1試合は力を出せるようになり、迎えた秋のリーグ戦では2部優勝の原動力へと成長。そして4年生の時、彼は神宮の舞台に立ったのである。
ここで望月氏は、この神宮が黒田にとってはいろんな意味でプラスになったと振り返る。
「ちょうど、この年から神宮球場のスコアボードにスピード表示がされるようになったんですよ。そこで150キロをマークして、それが彼にとっては大きな自信になったと思います」
黒田も「運があったと思います。あれでプロに注目されるようになりましたから」とコメント。
経験不足から来る自信のなさが、彼の投球を支配することが多かったが、この時にはそういった姿も少なくなっていた。この神宮での150キロは、速球派として黒田が自信を深めた一つのキッカケだったかもしれない。
また望月氏は黒田の成功についてこう言う。
「専修大学という2部の大学に入ったのが良かったと思いますよ。1部だと、投げれる機会が少なかったかもしれませんし、プレッシャーに押しつぶされた可能性もあったと思います。上宮高の山上監督は、そこまで見越して2部の専修大学に、黒田を行かせたのかもしれません」
また、普段は人望も厚く優等生といった印象の強かった黒田の性格を、次のようにも感じていた。
「1学年上の小林投手を最初は目標としていたようですが、最後の方は強いライバル意識を持っていたようです。それも黒田の成長の一端だったかもしれませんね」
入団の時に、「ライバルは澤崎(俊和・カープ同期入団のドラフト1位)」とキッパリといい切った黒田。また、ファームの春の教育リーグで打たれても打たれても投げつづけ、自分の調子を取り戻した黒田。こういった過程は、大学時代の彼そのもののように思える。
プロという最高の経験が、そして、澤崎という最高のライバルが、これから先、彼をどれだけ大きくさせていくのだろうか。
(第2回へ続く)