1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。

 第5回目の特集は、広島アスリートマガジン創刊初期の企画から、人気の高かったインタビューをセレクション。

 長年にわたり広島東洋カープの未来を支えてきたスカウトに獲得秘話を聞いた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載「コイが生まれた日」。かつてのカープドラフトの裏側にあったエピソードを、元スカウトの故・備前喜夫氏の言葉で振り返る。

 今回は1996年ドラフト1位(逆指名)でカープに入団し、1年目には新人王を獲得した澤﨑俊和の獲得ヒストリーをお送りする。(広島アスリートマガジン2004年連載『コイが生まれた日』を再編集)

1年目から12勝をマークし、新人王に輝いた澤崎俊和

◆澤﨑のスライダーは、キレ・コントロール共に抜群でした

 1996年のドラフト1位で指名したのが、青山学院大の澤﨑俊和です。私が彼を見始めたころは大学でエースではありませんでした。その時は倉野信次(元・福岡ダイエーホークス)がエースで、倉野のほうが有名でした。

 しかし澤﨑は、3年秋の東都大学野球リーグ戦で最優秀投手賞を受賞し頭角を現すと、4年生になった1996年にはエースとしてチームを引っ張る事になりました。春のリーグ戦ではチームとして9勝し優勝を飾りましたが、そのうち澤﨑は7勝を挙げる大車輪の活躍でMVPを受賞しました。優勝した当時、澤﨑の同期生には、倉野以外に井口資仁(元・ロッテなど)や清水将海(元・ロッテ)といった選手がいました。

 そして春のリーグ戦が終わったときに、当時の渡辺スカウトから「黒田博樹(専修大)ともう1人の逆指名を澤﨑に絞って交渉をする」という話を聞きました。実はそれまで逆指名を澤﨑か清水のどちらにするのか考えていたんですが、春の活躍を見て彼にすることにしました。

 頭角を現し始めたとき、それまでと変わったなと思ったことは球速はもちろん上がりましたがコントロールが抜群に良くなったことです。このコントロールがあればすぐに即戦力として一軍で活躍できるだろうなと思いました。

 逆にもう1人の逆指名で獲得した黒田は即戦力としてではなく、じっくり育てて1~2年後に一軍に上がってきてほしいと考えていました。澤﨑と黒田は同じ大卒ですが、二人に対する球団の考え方は違っていました。

 澤﨑の一番の持ち味はスライダーです。曲がりかたはそんなに大きいものではありませんでしたが、ストレートと同じくらいのスピードで手元で横に小さくスライドするものでした。今で言うカットボールに近い感じのボールで、キレ、コントロール共に抜群でした。

 また、シュートも投げてはいましたがインコースに投げているだけと言う程度で、スライダー程ではありませんでした。しかし、シュートを投げる事によりストライクゾーンを最大限に活かしたピッチングができ、スライダーがより効果的に投げられていたのではないかと思います。

 そして投球フォームは、当時の苑田聡彦スカウトが言っていたように、北別府学に似ている感じでした。球速は北別府のほうが速かったですが、スライダーに関しては決してひけを取るものではありませんでした。

 実際に彼に会って話をしてみた印象ですが、真面目で礼儀正しく自分の気持ちをはっきりと口にする選手でした。逆に黒田は大人しくてあまり口数が多い方ではなかったです。ピッチングスタイルにしても性格にしても二人は対照的でしたね。

 ドラフト1位で入団後、期待通り開幕一軍入りを果たすと、4月10日の神宮球場でのヤクルト戦でプロ初勝利を飾りました。この日はヤクルト3連戦の3試合目で3試合連続のリリーフ登板でした。9回裏同点という場面でマウンドに上がり先頭打者の古田にヒットを打たれますが、その後の打者から三者連続三振を奪うなど延長11回までヤクルト打線を無得点に抑えての初勝利でした。

 4月は中継ぎとして投げていましたが、5月からは先発として登板するようになりシーズン通算38試合・12勝8敗・防御率3.74で新人王を獲得しました。獲得後『おめでとう。この賞をひとつの糧にしてこれからも頑張ってくれ』と声を掛けたことをよく覚えています。

■備前喜夫(びぜん・よしお)
1933年10月9日生〜2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。