入団時から強い気持ちを持ち続け、一軍でレギュラーを争う立場にまで這い上がった二俣翔一。2025年シーズンは初の開幕スタメンも果たし、アクシデントにも負けない不屈のガッツで多くのカープファンに愛された。育成ドラフト1位で入団し、不安のなかで鍛錬を積み重ねた二俣が、『育成選手』という立ち位置への思いを語った。(全2回/第2回)
◆不安を抱えていた育成2年目。強い気持ちを持ち続けて支配下に
─『育成選手』をテーマにお話を伺います。二俣選手は2020年ドラフト組ですが、当時育成指名は1人でした。
「ドラフトを迎えていた時期は、育成でもプロ野球に行きたいという想いが強かったですね。同期入団には栗林(良吏)さん、森浦(大輔)さんたちがいますが、1年目から活躍されていました。ナイターの時間は寮の食堂で同期の先輩方を見ていて、『自分も一軍で活躍したいな……』という思いでした」
─育成選手時代は121番を背負ってプレーをしていましたが、どんな思いでプレーしていましたか? また不安に思うことはありましたか?
「育成選手は三桁の背番号ですから、二桁背番号を目指すだけでした。1日1日を大事にして、結果を出してなんとか認められたい、とだけ思ってプレーしていました。育成選手のままで2年、3年経過してしまうと戦力外になることもありますし、育成のまま2年目を迎えたときは、『このままプロ野球生活が終わってしまう……』という不安はありました」
─育成選手同士ではどんな会話をしていたのですか?
「7月で一旦区切りということで、『このままじゃ俺たちいけないな』という風な会話をしていましたね」
─育成契約で迎えたプロ2年目当時はどんな思いでしたか?
「1年目よりもより一層焦りがありましたし、7月に近づくにつれて、もっと良い数字、良い結果を出さないと……と焦っていたように思います。次にオフにチャンスがあるので、10月にフェニックスリーグで頑張って、自分が思っている以上の数字を出そうと……もう必死でした。実際にそこでヒットも多く打つことができて、良い数字を残すことができました。それでフェニックスリーグが終わって広島に帰ったときに、支配下登録を言われました」
─支配下登録が決まったときはどんな感情でしたか?
「周囲の方々も喜んでくれましたし、うれしかったですね。背番号が99になったので、一軍でプレーできる資格を得ることができたな……と思うと同時に、やっとスタートラインに立てたという思いでした」
─支配下登録となり意識はどのように変わりましたか?
「育成のときよりも、一軍の舞台でプレーしたい気持ちがより強くなりました。育成のときに、オープン戦である程度観客が入った雰囲気でプレーさせてもらうことはありました。ですが、頑張ればシーズン中に一軍の観客が多い中でプレーできると思って気持ちは高まりました」
─一軍デビューは支配下登録2年目の2023年でした。
「初出場は2024年だったんですけど、2023年に一度だけ、曽根(海成)さんが体調不良になって、特例的な登録で2日間だけ一軍登録されたことがありました。その時に初めてシーズン中の一軍の空気を肌で感じることができました。球場の雰囲気、応援を見て、聞いていると『ここで活躍したい』と、自分を奮い立たせてくれて、僕にとってすごく貴重な経験でした」
─2年間育成選手を経験されていますが、得たものはありますか?
「とにかく三桁の背番号を早く二桁に変えたい、という強い気持ちだけでやっていました。『プロ野球選手ではない』という思いが強かったですし、育成選手だったからこそ這い上がるぞという強い気持ち、反骨心のようなものが養われたと思います」
─二俣選手が考える『育成選手』とは、どのような存在と言えますか?
「支配下選手と違って、育成選手は立場が違いますし、二軍でもなかなか試合に出るチャンスが少ないケースもあります。言葉で表すなら、『練習生』だと思っています。それでも結果を出さなければいけない、そういう立場だと思います」
■二俣翔一(ふたまた・しょういち)
2002年10月21日生・23歳・プロ5年目
磐田東高−広島(2020年育成ドラフト1位)
背番号:121(2021-2022)-99(2023〜)