1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。

 第5回目の特集は、広島アスリートマガジン創刊初期の企画『コイが生まれた日』シリーズから、人気の高かったインタビューをセレクション。

 今回は、カープ低迷期に先発、中継ぎとして活躍した左腕・高橋建入団の裏側をお送りする。1995年ドラフト4位で入団した時点で26歳だった高橋。即戦力として1年目から登板を重ね、先発としても投手陣を支えた。41歳まで現役として投げ続けた左腕の獲得秘話とは。(広島アスリートマガジン2003年連載『コイが生まれた日』を再編集)

2025年シーズンまでカープ二軍で投手コーチを務めた高橋建

◆「プロに入る前に、もう紳士になってたんですね」

 我々スカウト陣が最初、彼について知ったのは、大学(拓殖大学)の頃だったのですが、その頃は投手としてではなく野手としてのものでした。実際に私が初めて見たのは、彼が大学を卒業してトヨタへ入って1年目の間もない頃、社会人野球四国大会が愛媛県の松山であり、その時に投手として投げた時なんです。

 「えーっ、こんないいピッチャー、大学にいたのか」と思って見たのを覚えています。

 彼がいた頃の拓殖大学は、その当時2部だったので、あまり見てなかったんです。で、東京担当のスカウトに聞いたら「いやぁ、見たけどあれはなかなか使えんですよ」という返事で……。でも、もうその頃、彼はピッチャーになってたから「いや、それがピッチャーとしてやってるんだ。いい球投げるぞ」と言ったら「それじゃちょっと注目しとかにゃいかんな」という話になり、1995年のドラフト4位で獲得しました。

 プロ入り後は、いいとこまで行くんだけど、フォアボールで崩れるんですよね。「どうしてあんないい球があるのにそれで攻めていけんのかなぁ」というのが、我々の気持ちでした。やっぱり持ち前の気の優しさがあるのか、それが悪い方に出て、「あーもうダメじゃないかな……フォアボールを出すんじゃないかな……」というような不安な気持ちが出たところから崩れていくことが多かったように思います。

 見ての通り、顔も言動も優しくて本当に紳士的。でもその優しすぎる面が野球ではマイナスになってる部分もあるんです。

 彼の場合は、歳をとってから(カープに)入ってきていますからね。大学出て社会人にいき、26歳でプロに入ってきているわけで、年齢的なものからいえば、普通の私服を着ている時は、優しくて当たり前だと思うんですけどね。ただ、野球をする時は別に物を考えなければいけないと思います。立派な社会人として、ある程度完成されてからプロ野球選手になったって感じはしますね。

 入団した時は既に結婚していて、上の娘さんも生まれてました。いわゆる『子連れルーキー』だったんです。サラリーマンから保証のないプロ野球に入っていくわけだから、これで家族を養っていくんだ、という気構えは持っていたと思います。

■備前喜夫(びぜん・よしお)
1933年10月9日生〜2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。