1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手が、現役時代の思い出やカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再編集してお届けする。
今回は、『精密機械』と称されるコントロールで勝ち星を積み上げた北別府学氏(1957年7月12日〜2023年6月16日)が、自身の入団当時を振り返ったエピソードを紹介。名投手の土台をつくった、ルーキーイヤーの経験とは。
◆まさに『目の当たり』にしたプロの球。その速さに驚かされた
プロに入って最初の春季日南キャンプで、私は初日から驚かされた。外木場義郎さん、池谷公二郎さん、永本裕章さん、金城基泰さんなどプロの先輩方が投げている球が、私と比べると比較にならないくらい速かったのだ。
当時はスピードガンが普及していなかったので数値でどのくらい違うかは出なかったが、肉眼で見てはっきりとわかる差だった。私はキャンプ初日の時点で、自分がプロ野球の投手として生きるためにはスピード以外の部分で勝負しなければならないと悟ったのだった。
同期のライバルが、地元の県立広島工高から入団した小林誠二であった。彼は入団当時オーバースローで、前年母校を初めて甲子園に導いた速球投手で、ドラフト1位の私に相当ライバル意識を持って入団してきたようだ。彼は私より早く高卒1年目で開幕一軍入りし、私が昇格したのは4ヵ月遅れて8月のことだった。ただ小林は故障もあって、速球派としてではなくサイドスローに転向後パームボールによって知られるようになったのである。
8月の最初の昇格では捻挫ですぐ抹消されたが、約1ヵ月後の9月16日、神宮球場での試合で初登板を果たした。ここでの好投が古葉監督に評価され、先発に抜擢されて3試合目の10月12日のヤクルト戦でプロ初勝利を挙げる事ができた。
1年目は9試合で2勝1敗、投球回数は29イニング1/3と、次年度の新人王の権利をギリギリ残してのシーズン終了である。しかし新人王を狙った翌1977年は、開幕から先発陣に入り規定投球回数に達したものの、5勝7敗、防御率5・52と振るわなかった。首脳陣やファンの期待に対して、すぐに結果で応える事はできなかったが、その中で勝つ喜びも負ける悔しさも両方たっぷりと味わった事は、私の野球人生全体における土台になった。
そして入団3年目となる1978年は、10勝7敗と初の2ケタ勝利を挙げる事ができた。徐々にではあるがプロ野球選手としての身体になってきた事でフォームも固まったのが原因だと思う。同時にボールが指にしっかりと掛かるようになり、安定した球が投げられるようになったのだ。
(第4回へ続く)
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