1975年の初優勝以来、数々のレジェンドOBたちが歴史を紡いできた。ここでは、往年の名選手が、現役時代の思い出やカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』の連載「プロジェクトC」を再編集してお届けする。
ここでは『精密機械』と称されるコントロールでカープ投手王国のエースとして活躍した北別府学氏(1957年7月12日〜2023年6月16日)語りで、1位指名直後の家族の反応、プロへの決意を改めて語った言葉を紹介する。(『広島アスリートマガジン』2005年12月号掲載記事を再編集)
◆運命のドラフト会議。『北別府学』の名前が全国に知られた瞬間
高校野球では甲子園など大舞台とは縁遠かった私を早くから見続けていた人がいた。カープの宮川孝雄スカウトであった。
ただ私には「絶対プロに行くんだ」という思いもなかった。私は大学か社会人で野球を続けようと思って、実際に高校の先輩が進んだ大学にも足を運んでみた。しかし大学側は「あの子はきっとプロへ行くだろうから」というので、具体的な試験の話すらなかった。先輩達から「受けに行くといろいろともらえるぞ」と言われていた野球用具とかも全くもらえずに、早々に帰る羽目になった。
そして迎えた11月18日のドラフト会議。当時はドラフト会議の仕組みが現在とは大きく異なり、まず最初に指名する順番を決める抽選を行った後、その順番に従って1人ずつ選手を指名するシステムだった。私としては「できればセ・リーグのチームに」というぐらいしか希望はなかった。
指名順10番目の広島東洋カープが1位で私を指名して、『北別府学』の名前が初めて全国に知られる事になった。希望していたセ・リーグからの1位指名であったので、不満は全くなかった。ただその年のチャンピオンチームから指名された事で、私は誇りと同時にプレッシャーも多少感じた。
ドラフト1位指名を受けての、両親の反応は大きく分かれた。父親は「大学で4年間という遠回りをするよりも、投手は高校からすぐ入った方が近道だ」という話をよく耳にしていたようで、プロ入りには理解を示してくれた。
しかし母親からすれば、先に契約金をくれる上に「親が死んでも帰れない世界ですよ」というような話をスカウトから聞いて、自分の息子を売るように感じたのか、プロ入りには抵抗を覚えたようだ。
父親と母親とでは意見が分かれたが、最終的には私本人で「プロに行きます」という返事をした。と同時に私の中では「3年やって芽が出なかったら、やめて田舎に帰る」というもう一つの決意もあったのだ。こうして1975年12月、私はカープと正式に契約した。背番号は『20』であった。
(第3回へ続く)
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