昭和25年。原爆投下により焼け野原となった広島の地で、絶望感に打ちひしがれていた広島市民の夢や希望を背負って発足したのが『カープ』だった。
カープ初の入団テストを経て、捕手として7年間プレーした長谷部稔氏。ここでは、創設期を知る長谷部氏のインタビューを再編集して掲載する。
数々の苦難を乗り越えたカープは、熱狂的なファンに支えられ人気球団となった。レジェンドOBの言葉とともに、いま改めて、カープとファンの絆を振り返っていく。(『広島アスリートマガジン』2010年1月号掲載記事を再編集)
◆広島のシンボルであり続けるために
そうして広島の人々に支えられながら球団経営も軌道に乗ってきた昭和31年、ナイター球場がつくられることになったのです。
私はその前年に引退したため、選手としてその場に立ち会うことはできませんでしたが、旧広島市民球場ができたときの広島の人々の喜びというのは筆舌に尽くしがたいものでした。カープと広島の復興とは一緒のものでしたから、これでようやく復興したという感慨が湧き起こったのだろうと思います。
昭和50年に初優勝した時の広島の盛り上がりも本当にすごいものでした。
優勝の可能性が高まると同時にだんだんと街が賑やかになり、赤一色になっていきましたからね。優勝が決まった夜は、街全体がお祭り騒ぎでね。
やはりみなさんとつくり上げた球団なので、広島の人々には『我がチーム』だという誇りがあったのでしょう。そしてその思いは、現在にも受け継がれているものだと思います。
2009年には新たにマツダ スタジアムができましたが、これも広島のみなさんの協力なくしては実現できませんでした。時代は移り変わりますが、カープが広島の人たちに救われて成り立っているというのは不変的なものです。ですから、カープの選手たちはその恩を忘れてはなりません。
カープが広島の人々にどれだけ支えられてきたかを伝えることで、これからもその伝統は受け継がれていくと思います。そうすることで、末永くカープは広島に根付いた球団であり続けることができると思っています。
■長谷部稔(はせべ・みのる)
1931年10月15日生、広島県出身
現役時代のポジションは捕手。カープ初の入団テストを経て1950年に入団すると、1956年までプレー。現役引退後は、2006年から2013年まで第3代カープOB会長を務めた。
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