1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。
カープ投手王国の左腕として、リーグ優勝、日本一に貢献した大野豊氏。「高校時代は怒られてばかり」、「家族のために信用組合に就職」……数々のエピソードを持つレジェンド左腕は、いかにしてカープ入団となったのか。今回は大野氏の言葉で、社会人野球時代までを振り返る。(『広島アスリートマガジン』2004年11月号掲載記事を再編集)(全10回/第2回)
◆呆気なく終わった高校野球生活。母のためにも選んだ職場は信用組合
出雲商業高校に進学し野球部に入部した私だったが、最初は球拾い兼バッティングピッチャーだった。
しかし球が速くてもコントロールが悪いため、先輩にはいつも怒られ、「あいつに投げさせないでください」と主将が監督に直訴したとも言われていた。確かに外野手として長い距離では良いボールを投げていたが、マウンドからホームまでの18.44mになると、スピード自体はあってもどこへ行くかわからない。ツボにはまれば凄いが、でなければ四死球連発で自滅である。とにかく試合で使えるコントロールではなかったので、1年生の時は走ってばかりだった。
しかし今にして思えば、それで足腰が鍛え上げられ、社会人、そしてプロでの22年間につながったという気がする。また投手としてあまり多く投げていなかったので、肩やヒジを酷使しなかった事もよかったかも知れない。
私は1年生の夏の県大会からピッチャーではなく外野手としてベンチに入れてもらい、2年生の夏まではセンターやライトとして試合に出場した。一応控え投手でもあったが、やはり中学と同じように1学年上にエースが、1学年下にも有望なピッチャーがいて、なかなか投手としての登板機会はなかった。
最上級生になった高2の秋、身長も175cmまで伸びて、私はようやくエースナンバー『1』をもらった。しかし甲子園は遙かに遠い存在だった。

