大学時代に頭角を現し、2002年のドラフト自由獲得枠で阪神に入団した江草仁貴(ひろたか)。阪神在籍時の2005年にはロングリリーフもできる中継ぎ左腕として、チームのリーグ優勝に貢献した。2012年からは地元球団のカープに移籍。紆余曲折を経て、そのキャリアを広島で終えた男の野球人生に迫る。

カープの在籍期間は6年。2012年には貴重な中継ぎ左腕として、26試合に登板した江草仁貴投手。

 もうすぐカープのユニホームを脱いでから3年が過ぎようとしています。カープファンのみなさん、ご無沙汰しています、江草仁貴です。

 現役時代、阪神、西武、カープの3球団でプレーしましたが、やはり一緒にプレーした現役選手がたくさんいるカープは特に気になる存在です。スポーツニュースでも「誰々が打った、投げた」と、現役時代一緒に練習していた選手のことを目にすると、うれしいものです。

 また一緒に汗を流した中﨑(翔太)や中田(廉)のことも気になりますね。特に今季は、一緒に自主トレも行った塹江が一軍で活躍していました。『勝ち』もつけば『負け』もつく、大事なところで投げているのを見ると、塹江の成長を感じられて、余計にうれしくなります。

 私は現在、大阪電気通信大学硬式野球部(以下、大阪電大)でコーチを務めています。そこでは技術的なことばかりでなく、『一生懸命の大事さ』を伝えるようにしています。

 大阪電大は決して強いチームではなく、野球に費やす時間も長くはありません。プロ野球を目指す選手もいないチームですし、高校時代はレギュラーでなかった選手も少なくありません。それだけに私は彼らに『頑張ったら、報われる』ということを伝えたいと思っています。

 私はどうだったかって? 私の場合、プロ野球選手にもなれて、一軍でも投げられて、優勝も経験できたので、ずいぶん“報われた”と思います。

◆「生きるか、死ぬか」…。強烈だった盈進高の練習

 私が野球を始めたのは、小学3年のときでした。地元である広島県福山市の『福山DJクラブ』というチームに入団しました。地元の軟式野球チームで、練習は週末だけでした。

 盈進中時代も部活動ではやっていましたが、平日1、2時間の練習で、グラウンドも他の部活と兼用だったので、ノックを十分に受けられる環境ではありませんでした。朝は友人とバスケットボールをしていたくらいでしたし、中学時代までを振り返ると、決して本格的に野球に取り組んでいた訳ではありませんでした。

 そんな空気が変わったのは、盈進高に進学してからです。広島県でも古豪として知られるチームだっただけに練習は強烈でした。毎日が「生きるか、死ぬか」の感覚でした。とにかく、たくさん走らされましたし、夜22時頃まで練習した時期もありました。

 夜、疲れ果てて帰宅。そして夕食の茶碗を手にして、そのまま寝てしまうこともありました。『ガチャン!』という茶碗を落として割ってしまった音で目が覚める……そんなこともありました。風呂でも浴槽で寝てしまうので、母親に見回りにきてもらうようにしていたくらいです。

 高校1年からベンチ入りさせてもらい、秋には『4番・ライト』を任されるようになっていました。当時は打力を評価されていました。その後、高校2年からエースをまかせてもらうようになりましたが、武器はMAX136キロのストレートとカーブ。この2種類で三振も奪えましたし、十分戦うことができていました。

 甲子園出場は叶いませんでしたが、正直甲子園に行けると思ってもいませんでした。ただ、もちろん目標はプロ野球選手でした。野球推薦での進学の話もあったようですがうまく進まず、予備校に通い一般入試で専修大に入りました。野球推薦組の選手と最初は壁もあり、出遅れたことは否定できません。3年までは実力不足もあり、登板機会はほとんどありませんでした。

 得意のカーブの投げ方も予備校に通う間に忘れてしまったようでした(笑)。そこからスライダーやフォークを投げるようになり、直球は145キロまでアップしました。