1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。
第2回目の特集は、カープ歴代監督のインタビューセレクション。
広島東洋カープを牽引してきた歴代の監督たち。その手腕や采配の裏には、揺るぎない信念とカープへの深い愛情があった。ここでは、広島アスリートマガジンに過去掲載した監督たちのインタビュー、OBによる証言を厳選。名場面の裏側や選手との関係、勝利への哲学など、時代を超えて語られる言葉の数々をお届けする。
今回は現役時代に“いぶし銀”と呼ばれた三村敏之監督。『トータルベースボール』を提唱し、古葉野球で培った伝統のカープ野球を継承し指揮官だ。監督退任と時を同じくして現役を引退した大野豊氏から見た三村監督とは……。
◆物静かで温厚。良き兄貴分でもあった『いぶし銀』の内野手
三村さんとは現役時代ともにプレーをさせていただきましたが、世間からは『いぶし銀』と呼ばれ、非常に優れた野球センスの持ち主である選手でした。当時は山本浩二さんや衣笠祥雄さん、髙橋慶彦など個性派選手ぞろいのチームにおいて、脇役として確実につなぎ役に徹することができる方でした。
そんな三村さんは1983年の引退直後からコーチとしてチームを支えられていましたが、1994年に一軍監督に就任されました。そして就任直後、三村さんは当時ストッパーを務めていた私と当時先発だった佐々岡真司を呼び、『大野と佐々岡の役割を逆にしてくれないか』と提案されました。ですが、私は山本浩二監督時代、先発としての限界を感じてストッパーに回ったという経緯がありましたし、佐々岡も先発として投げることを志願していたこともあって、その構想はお断りし、納得していただきました。
しかしながら、翌1995年にも三村さんは私と佐々岡の役割を逆にする構想を再度提案されてきました。そこまで言われるなら、という事でオールスター前に私は先発に回ることになりました。ブルペンで先発としての調整を行う度に毎回私の様子を必ず見に来てくれたのは、今でも印象に残っています。
私を先発に戻すという判断は、当時周囲からの反対も当然あったと思います。その意見を押し切るという決断は難しい面があったと思いますが、最終的に三村さんは自分の信念を突き通されました。結果的に97年には球界最年長で最優秀防御率のタイトルを獲ることができましたし、先発として中6日で調整することで選手寿命が伸びました。
そしてストッパーに回った佐々岡は体力もあり、連投が効くだけに数々の勝利に貢献することになりましたし、すべて三村さんの読み通りとなりました。ベテランとなり、引退が迫っていた私のような投手をしっかり見ていただいて本当にありがたかったですし、愛情を感じました。一方で先発として終盤まで好投していたにも関わらず交代させられ、私も納得いかないということもありました。ですが、それも三村監督が先を読んだ上での作戦であり、勝負所になれば、シビアな采配を振るう監督でもありました。