カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 今回は、苑田イズムを継承するスカウトのエピソードをもとに、苑田スカウトの“スカウトの適正”を見抜くポイントを紹介する。

1999年ドラフト7位でカープに入団、5年の現役生活を経てスカウトに転身した松本奉文氏。菊池涼介や野間峻祥、薮田和樹などの選手を担当し、今年のドラフトではドラ1・栗林良吏を担当した。

◆ 部下の適性を見極めよ。日常のなかにヒントはある

 スカウトの後進を育てることも大事な仕事である。適性がある人間を球団に薦めたこともあった。

 現在カープのスカウト部長・白武佳久もそのひとりである。ストレートとスライダーを武器に1980年代のカープを支えた右腕も苑田が担当した選手であった。日体大からドラフト2位でカープに入団し、背番号18を着けた。トレードで移籍したロッテでは90年に二桁勝利もマークした。

 カープに復帰した1996年、彼の引退に際し、苑田は球団にスカウト就任を打診した。

 「選手としての野球への打ち込み方や人と接する態度が素晴らしかったです。年下に対しても、彼は決して見下したような態度はとりません。こういう人にスカウトをやって欲しいと思いました」

 その人間性は、大学時代から一貫していた。

 「彼は、日体大の寮の食堂でアルバイトをしていました。普通、野球部員はアルバイトなどができません。でも、親に迷惑をかけず自立しようと思っていたのでしょう。こういう人は、苦労してもやっていけるだろうと感じました」

 スカウト業の大変さは知っている。だからこそ、そんな心の強さを持つ白武をスカウトに推した。

 2014年、彼が担当した中田廉(2008年ドラフト2位)は66試合に登板し、中継ぎ陣の核となった。

 2014年のドラフトでは、高松北高の150キロ左腕・塹江敦哉をドラフト3位で、おかやま山陽高の本格派右腕・藤井皓哉を4位で相次いで指名。首脳陣の評価はルーキーイヤーから非常に高いものとなっている。

 「白武スカウトは各地をよく回ってくれています。たくさん見ると、やはり目は肥えます。彼は家族思いですし、日体大で苦労もしている。しっかりモノも言える人です」

 白武は選手獲得はもちろん、スカウト部長としても大きな信頼を得ている。苑田の眼は、ここでも狂いがなかったわけである。

 堂林翔太を担当し、菊池涼介や野間峻祥、薮田和樹らを発掘した気鋭のスカウト松本有史も苑田が導いた人材である。

 「スカウトの適性は、やはり人間性です。眼力とか言いますが、それは練習を見ていれば分かるようになるものです。できるようになります。むしろ、人柄や礼儀が大事です」

 苑田は、亜細亜大時代の松本の姿にスカウトとしての可能性を感じていた。

 「大学でも主将で、よく声を出していました。それだけでなく、個人ノックでは他の選手にもガンバレ! ガンバレ! と声を出すような人間でした。スカウトに向いていると思いました」

 ひざの故障もあり、プロの一軍では実働5年、17安打に終わったが、『亜細亜大史上、最も心優しい四番打者』と言われた男は、今やスカウト界の『ヒットメーカー』として野球界で花開いている。

 東海大のスラッガー・鞘師智也にもスカウトの資質を感じていた。報徳学園高 の出身で明るい性格も大きかった。

 「関西の出身だけあって、彼はよく喋りますね。もちろん、野球が好きだということもありました。こういう人は、横の繋がりもつくることができるでしょうし、情報がもらえるだろうと思いました」

 天才的なバッティングセンスを誇りながら、ひざの故障に苦しんだ尾形佳紀にもスカウト適性を見出した。

「真面目で礼儀正しい。これが大きいです。ケガに苦しみましたが、何かあったらスカウトにと思っていました」

 尾形は関東地区を担当するため、東京を拠点とする苑田と行動をともにすることが多い。

「一緒にグラウンドを回っているうちに、小まめに動くスカウトになってくれました。とにかく、これだと思ったら球場に数多く通うように言っています」

 2013年ドラフト3位の田中広輔、2014年ドラフト6位の飯田哲矢らの所属していたJR東日本のグラウンドに一緒に通ったことを思い出す。

「帰り道に駅でうどんを食べたことをよく覚えています」

 寒い冬もグラウンドに通う。帰り道に、若きスカウトとベテランスカウトがカウンターに肩を並べる。その姿を想像するだけでも、スカウトの魂が着実に継承されていることは想像に難くない。

 選手の長所を見極めるのがスカウトの仕事である。その統括部長として、苑田は『スカウトのスカウト』としても大きな仕事を成し遂げてきたのである。

 仕事に近道はない。これは、どの世界にも共通したことであろう。むしろ、長く苦しい道を歩き続けられる人材こそが必要なのである。人間性、礼儀作法、実にシンプルなところを苑田は見ている。そして、その大切さを説き続けている。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。