カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 今回は、甲子園優勝投手・西田真二のクレバーな一面、小早川毅彦のクッションボールの処理の仕方などのエピソードをもとに、スカウトが意識するべき「先を読む力」を紹介する。

1983年ドラフト2位でカープに入団した小早川毅彦氏。現役引退後の2006年から2009年まではカープでコーチも務めた。

◆ 先を読む力を大事にせよ

 将来を見据えながら『今』に夢中になれる人間への評価は高い。もちろん、スカウトの仕事は、選手の将来性を見通すことである。ただ、選手自身が自分の未来をどう考えているか、これが大事なのである。

 まず、試合のなかでの先々の予測である。

「次のプレーを考えている選手を私は求めています。守備でも、打者走者の脚力や打球の速さを頭に入れておくことは欠かせません。何かが起こってから考えるのでは遅すぎます。プレーが始まる前に予測できていないといけません」

 それは試合のなかだけではない。人生においても、先のことを考えている選手が強いと確信している。

 「人生の先を読める人と、次のプレーを考えられる人。根っこは同じだと思います」

 1991年にカープの四番を務め、リーグ優勝に貢献した西田真二は苑田の印象に残る選手のひとりだ。PL学園高ではエースとして、木戸克彦(元・阪神)とバッテリーを組み、夏の甲子園全国制覇の原動力となった。

 さすがに甲子園優勝投手である。当時はプロ野球のスカウトのみならず、野球ファンにも西田の知名度は絶大であった。ただ、苑田は『投手・西田』の可能性についてはシビアに見ていた。

「良い投手ではありましたが、ここまでが限度だと思っていました」

 後に打者として大成するわけだから、苑田の眼力は確かであった。

 もともと西田にも、野手としての志向はあったようだ。甲子園で四番を打っていたわけであるから、その方向性には理解できる。にもかかわらず、彼は、法政大1、2年生のときは投手として練習に参加していた。西田本人に、投手の練習に参加する理由を問うてみたことがある。その理由が冴えていた。

「外野手ならば、下級生は球拾いなどの時間が長いです。しかし投手ならば、圧倒的にランニングの時間が長い。だからです」

 『投手か野手』というポジションでの選択ではない。『球拾いか走り込み』という視点で西田は考えていたのである。ランニングで下半身を鍛える必要性を認識し、それができる『投手としての練習』に参加していたのだ。このクレバーさが、西田の魅力であった。

「もちろん、打撃そのものも評価していました。彼はタイミングさえ合えば、イケイケのムードでどんどん振っていくタイプでした。ああいう選手はチャンスに強いはずです。それに、頭が良かった。彼は人生の先が読めていました。そうであるならば当然、試合のなかでも次のプレーが読める選手のはずです」

 大学時代、西田は外野手に転向すると、東京六大学野球リーグのベストナインに五度選出され、1982年にドラフト1位でカープに入団。四番に座った時期もあったが、代打の切り札として『ここ一番』の勝負強さでカープファンに愛された。現役引退後には、カープで打撃コーチを務め、その後は四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグPLUS)香川オリーブガイナーズ監督として、2007年には前期・後期を連覇。リーグチャンピオンシップ、独立リーグのグランドチャンピオンシップを制し、1年に四度の胴上げを経験。指導者としても名を馳せている。

 担当スカウトの苑田の眼は確かであった。打者としての適性と勝負強さ、野球人としてのクレバーさ。西田は、それらの要素を野球界で存分に発揮し続けている。

「走攻守の全てがすごいのに、試合のなかで状況判断ができないために力を出し切れない選手もいます。三拍子揃っていても、頭が良くないといけません。先のプレーを読むこと、次の塁を狙うこと、バックアップ、カットプレー……そういうことに自然と体が動く人は魅力的ですね」

 『先を読む力』は選手だけに求められるものではない。スカウト側も各選手の現状だけでなく、将来像を懸命にイメージしながらグラウンドを見つめているのだ。

「例えば、外野手を見るときも、あらゆる可能性を探りながら見ています。『これしかできない』という選手では生活できません。長くプロ野球界でプレーしていくには、いろんなポジションができたほうが、可能性が高まると思います」

 西田と同じく、PL学園高で甲子園に出場し、法政大では1年生のときから四番を務めた小早川毅彦も、苑田が担当したひとりである。1983年秋にドラフト2位でカープに入団すると、1年目の1984年にはリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、新人王を獲得。山本浩二引退後はカープの四番も務めた。注目されたのは、その長打力である。

「スイングは速く見えますが、うまくバットに乗せてボールを運ぶ技術がありました。しっかり乗せて前に運ぶ。まさに長距離砲だと思いました」

 もちろんスカウトとしての眼は、守備面にも及んでいる。プロ野球では『四番・ファースト』のイメージが強かったが、高校・大学時代は主に強打の外野手として活躍していた。外野手として試合に出る小早川を見ながら苑田は、『日本一のサードになれる』とイメージしていた。

「外野のクッションボールの処理の仕方を見て、内野もできると思いました。フェンスから跳ね返ったボールをスムーズにワンステップで処理できる人は内野もできる可能性があります」

 実際、小早川は通算171本塁打を記録した長打力でカープの主砲として活躍した。プロ入り当初はファーストが中心ではあったが、セカンドやサードで公式戦に出場したこともあった。

 『クッションボールの処理の仕方』の向こうに選手の未来が見える。この細部を、練習の段階から絶対に見落とさない。スカウトの眼は、派手な本塁打や快速球ばかりに向いているわけではない。

 同じく法政大で東京六大学史上9人目の三冠王を獲得した廣瀬純も担当したひとりである。

 「大学でライトを守っていましたが、クッションボールの処理を見ていると、小さな動きもできているし、良いサードになるだろうと思っていました」

 強肩の外野の名手として、レーザービームを投じるその存在感は絶大だが、サードとしての可能性を苑田は何度もイメージしていた。

 「もちろん外野も良いですが、廣瀬がサードをやったら彼自身のためにもなるし、チームのためにもなる」

 一軍の舞台で躍動する姿を見ながら、幾度となく考えたことがある。2010年に外野手としてゴールデン・グラブ賞にも輝いた名手には間違いないが、若き日にはポジション争いのなかで、内野に活路を見出したこともある。2008年、外野の定位置争いが激化し夏場に一軍登録を抹消された。このとき、廣瀬は二軍でファーストに加えサードの練習も行った。そして9月、一軍復帰を果たすと、サードでスタメン出場することもあった。そこからチャンスを掴み、翌年は94試合に出場して一軍に定着。2010年にはキャリアハイの149安打をマークした。

 選手には自分の未来を考えるクレバーさを求めたい。その一方で苑田も、選手の将来像を懸命にイメージするようにしている。投手のままが良いのか、野手に転向すべきなのか、内野なのか、外野なのか。そのヒントは全てグラウンドにあるのだ。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。