カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 今回は、2011年の野村祐輔の獲得エピソードをもとに、『運』をも手繰り寄せる、スカウトの熱き想い・たゆまぬ努力を紹介する。

2011年ドラフト1位で入団した野村祐輔選手。1年目から9勝・防御率1.98の成績を残し、球団史上8人目となる新人王を獲得。2016年には16勝をあげ最多勝と最高勝率のタイトルを受賞した。

◆ 人事を尽くして天命を待て『運』は『運命』に変えられる

 『神通力』はあると思う。一生懸命やれば、運はやってくる。ベテランスカウトは『運』というものの存在を強く信じる。

 現役時代は、練習に打ち込むことで『運』は呼び込めると信じた。

「人の見ていないところで練習しろと言われたものです。『明日は打たせてください』と願いを込めて、夜にはバットを振ったものです。真面目にやっていれば運はやってくる。練習で運を呼ぶという考えでした」

 スカウトになっても変わらない。小さな神棚を設けて願いを込めることもする。しかしそれは、グラウンドに足を運び、惚れた選手に誠意を見せた上でのことである。

 2011年のドラフトで、明治大のエース野村祐輔は『大学球界ビッグ3』と称され、菅野智之(東海大)、藤岡貴裕(東洋大)とともに注目を集めた。複数球団の競合確実と見られていたが、ふたを開けてみると、カープが単独指名に成功した。大学の公式戦だけで34試合を視察、さらに明治大のグラウンドにも通い詰めた執念は実を結んだ。

「私の思い、念力が通じた」

 その言葉通りだった。カープを投手王国にするために、野村の力が必要だった。

「コントロールが抜群で、球持ちも良く、うちにはいないタイプの投手だと思いました。球の速い投手を何人も獲得してきましたが、必ずしも全ての投手が成功したわけではありませんでした。野村みたいなタイプはひとり欲しかったです。変化球も良かったので、これなら10勝はするだろうと思っていました」

 スカウティングにおいて、球の速さは大きな魅力となる。しかし苑田は、速球派がプロ野球の世界で苦しむ光景も見てきた。

「球の速い投手は欲しいですよ。でも、(入団してから)コントロールを求められるあまり小さくまとまっていく姿も見てきました」

 野村の最大の魅力は完成度の高さにあった。広陵高時代は、夏の甲子園で準優勝にも輝いたが、苑田の印象はさほど強くなかった。だが、明治大3年生の頃から、印象が変わってきた。

「もともと、コントロールの良い投手だと思っていたのに加え、球にキレが出てきました。138キロくらいの球でもキレがあって、さらに目を引かれるようになりました」

 試合を見ていると、疑問が湧いてきた。野村の登板後にアイシングをする姿を目にすることがないのだ。練習試合などで早めに降板したときも、ファールグラウンドで強化運動を行っていたりする。関係者に聞けば、グラウンドでの時間を無駄にせず帰りのバスのなかでアイシングを行っているという。しかも、大学に戻ってから近くのトレーニングジムに向かうこともあると聞いた。

「ますます、いいなぁと思いましたね。夕食の後にもジムにいくとも聞きました。やはり、いいですね」

 野村が全日本のメンバーとして遠征するとき、帯同できなかった苑田は、関係者に聞いてみた。質問はひとつ、「野村はどれだけ走っているか?」であった。

「チームのバスを待たせて走り込んでいるという話でした。嬉しかったですね。『よしよし、俺の目に狂いはなかった』そんな気持ちでした」

 苑田が見つめていたのは、球速や変化球のキレといった『現象面』だけではなかった。むしろ、そのパフォーマンスを生み出すための姿勢や人間性をも見ていたのだ。

「明治大のグラウンドの水飲み場でね、野鳥が集まってくるんです。野鳥は、競争せずに順番に待って、つがいで並んで水を飲んでいました。すると、町内清掃の日だったらしく、野球部員が自転車で帰ってきてね……」

 何気なく語っているが、東京都内で野鳥が見られるということは、苑田がいかに早朝からグラウンドに足を運んでいたのか。通常、スカウトは練習時間だけをピンポイントで狙って視察にグラウンドに向かうものではないのだろうか。

 苑田は、お目当ての選手の登板日はチームに聞かない主義である。

「そりゃ、聞かれたチームも迷惑でしょ。どうするかって? ひたすら試合に通うしかないですよ」

 選手に直接声をかけることはできない。野村の高い評価は不変である。ならば、連日のようにグラウンドに通った苑田は、何を思っていたのか?

「ケガだけはするなよ。それと、いつも見ておけば、思いは通じると信じていましたから。それに、自分のなかで、野村と決まっていたので、他を見ても仕方がないでしょう」

 ベテランスカウトの熱い思いは通じていた。ドラフトの目玉選手の単独指名は、決して偶然ではない。人一倍の強さを持つその熱意と執念は『運』のひと言で済ませられはしない。苑田は、不断の努力で『運』を『運命』に変えてきたのである。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。