カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 今回は、投手から打者に転向し、見事大成した嶋重宣のエピソードをもとに、苑田スカウトが考える指導者論を紹介する。

1994年ドラフト2位で入団した嶋重宣選手。打者転向から5年目の2004年にレギュラーに定着し、首位打者、最多安打、ベストナインを獲得。“赤ゴジラ”旋風を巻き起こした。

◆ 二の大刀は『いざ』のときに抜け

 投手でプロ入りしてから野手に転向。10年目にして首位打者に輝いた。嶋重宣も苑田が担当した選手である。自らの才能を開花させるまでに、時間がかかったことは否めない。だが、他人とは異なる道を歩んだ経験こそが嶋の『今』に生きている。

 投手として一軍のマウンドに上がったのはわずか2試合のみ。野手に転向してもなかなか一軍に定着できず、プロ入りしてから9シーズンで通算安打数は51本。自由契約の恐怖すらあった男が2004年、苦労の末に打者としての名誉のひとつである首位打者のタイトルを獲得。オールスター初出場も果たし、最多安打、ベストナインも獲得。『赤ゴジラ』というニックネームは全国区でも話題となった。

 にもかかわらず、担当スカウトだった苑田は、「おめでとう」の言葉を嶋に言った記憶がない。

「確かに、お祝いの言葉を伝えた覚えがありません。むしろ、『投手で大成してほしかった』と言いました。もちろん、首位打者は素晴らしいことです。しかし私は、彼がすごい投手になると確信していました。高校2年生で全日本のメンバーに入り、あのストレートは、すでに大人の球でした。うなりをあげるような球ですよ。練習では長時間走っても平気な様子で、スタミナもありました。先発で2ケタ勝利できる、エースになれる選手だと思っていました」

 野手としての能力を否定していたわけではない。野手としても高い評価をしながらも、投手としての能力にさらなる可能性を感じていたのだ。故障もあって投手として成功はしなかったが、彼にはもうひとつの武器があった。天才的な打撃技術である。

 入団時、苑田は嶋に「人前でバットを振るな」と言ったくらいである。彼のスイングを見れば、打者への転向を勧められるだろうということを見越しての言葉であった。

「打撃も素晴らしかったです。構えに無理がなく、テイクバックが柔らかく、間ができる。右投手も左投手も打てる。レフトにもライトにも打てて、ヒットもホームランも打てます」

 時代が時代なら、『二刀流』の待望論が出ていたかもしれない。ただ、プロ野球の世界は厳しい。勝負するなら、投手か野手かフィールドを選択する必要があった。今でこそ、大谷翔平が二刀流で活躍するが、当時はそんなムードでもなければ、大谷を一般論のなかに括ることは憚られる。苑田も猛烈に二刀流を推進する考えは持っていない。

「大谷選手も高校時代から見てきましたが、(投打とも)すごい選手だと思います。投げては160キロのストレートでしょ。でも、先発投手なら中5~6日になります。やはり、大谷選手はプロ野球ファンが毎日見たい選手です。ですから、野手なら毎日ファンに見てもらえますよね。バッターに専念したら、プロ野球のいろんな打撃記録を塗り替える可能性もあると私は思っているくらいです」

 話は脱線したが、「嶋に投手として成功してほしい」という気持ちは、高校時代の彼を見た日からいささかも変わらぬものであった。

 黒い大判のノートがある。ここには、苑田のスカウト活動の記録が記されている。嶋のページをめくる苑田の眼差しは、孫のアルバムを見るような愛情に溢れていた。

「そうか、嶋は巨人ファンだったね。良いことばかり書いてあるわ。あら、カープでやりたいと言っているね」

 嶋を見出したのは20年以上前だが、ノートをめくりながら、高校生だった剛腕投手が記憶のなかで蘇る。その姿は、やはり、投手だったのである。人生は面白いもので、あの好投手が打者でタイトルを手にし、今は西武で打撃コーチを務めている。

 ある日苑田はふと、西武第二球場に立ち寄ったときに、元気に指導する嶋の姿を見て、喜んだ。

「やはり、いつまでも気になるものですよ」

 と彼はつぶやいた。

「指導者には技術だけでなく言葉が必要です。嶋には言葉があります。投手から野手に転向し、遠まわりしたことは彼の人生でムダにならないと思います。彼の指導を見ていると、自分の成功を押しつけず、選手の声に耳を傾け、話し合いながら指導をしている様子でした。押しつけられた技術は、次の日には忘れるものです。そういう意味では、嶋はいろんな経験をしたことが今に生きていると思います」

 投手という『自慢の大刀』で成功できなかった悔しさ。プロ入り後の野手転向という『苦労の大刀』での成功。人生の二刀流を挑んできた男の言葉は若き選手の心に響く。

 投手では成功できなかった。しかし、バットという『二の大刀』によって彼はプロ野球で成功できた。そして、その『背水の大刀』で挑んだ野手転向の覚悟が指導者としての言葉に重みを持たせている。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、1964年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、1969年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。1977年に現役引退すると、翌1978年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。