その監督の言葉の意味は、初めて駒澤大に野村に会いに行った日にとてもよく分かりました。野村を私の前に連れてきた監督は、私との挨拶を済ませた後に「おい野村、この後俺の授業、急用ができたので代わりに頼む」と言ったのです。

 太田監督は駒澤大の教授でもありましたから週に何回か授業も持っていたわけですが、恐らくソフトボールなど体育実習でしょうけど、同じ学生である野村が任されるというのは並大抵のことではありません。しかも初めて会った私の前で普通に頼んでいるのですから、以前から何度も任せていたように思います。いかに野村という選手がしっかりしていて、監督に信頼されているかというのを、改めて強く感じさせられました。

 ちなみに彼の弟さん(野村昭彦氏。現・環太平洋大硬式野球部監督)も、後に駒澤大で主将を務め、社会人野球を経て現在は指導者になっていると聞きました。リーダーとなるにふさわしい家庭のしつけもあったかも知れません。

 入団した年こそ代走など途中出場が主でしたが、髙橋慶彦がロッテに移籍したため、2年目からショートのレギュラーポジションに定着して見事盗塁王を獲得しました。翌1991年には1番打者としてリーグ優勝に貢献して、盗塁王とベストナインに輝きました。

 そして1995年には初の30本塁打をマーク、3割・30盗塁をカープでは初めて達成したのです。打って、走って、守って、赤ヘル野球を代表するチームリーダーとして活躍し、若手の格好のお手本にもなったのです。

 ただ1995年の『トリプル3』については、太田監督もびっくりしておられました。私達スカウトも、俊足・好守に加えてシュアな打撃では評価していましたが、長打力には期待していませんでしたから。しかも野村は高校時代は右打ちで、現在の左打ちには大学進学後転向したように思います。大学時代、そして入団当初も、どこか左打ちがぎこちなく見えたものです。恐らく筋力トレーニング等も取り入れ、あまり大きくない体全体にパワーを付けたのでしょう。並々ならぬ努力があったに違いありません。

 =第8話に続く=

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

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