◆「一応、採用する。ただ……」
キャンプ地の呉二河球場に着くと、私はピッチングだけではなく、遠投や50m走など公式の入団テストと同じ内容で受けるものと思っていた。しかしそういった数値で計るようなものは一切なく、3日目までは他のカープ選手と同じメニューでの練習に参加した。そして4日目、ようやくマウンドでピッチングを見てもらう事になり、当時二軍監督の野崎泰一さんや、スカウトの木庭教さんが私のピッチングを見てくれた。何球投げたか覚えていないが、あっという間に感じた。
テストが終わると、私は木庭スカウトの部屋に呼ばれた。
「一応、採用する。2月に採用することはほとんどないのだが、今回はとにかく特例だ。ただ君が現在やっている仕事の方が将来も安心だと、私としては思う」
堅実な仕事に就いていながら、なぜプロ野球の世界へ、と木庭さんは心配してくれたようだった。しかし私は、念願のプロへの道が開けたうれしさで「ありがとうございました」と答えるだけだった。
契約金こそなかったが、支度金として100万円が支給され、月給は13万円と決まった。職場の月給は5万円だったので、2倍以上である。多くの新入団選手と比べると決して良い条件ではなかったが、念願のプロ野球選手になることができたのだ。
地元に戻ると、最初はみんな非常に驚いたがすぐに大変喜んでくれて、「じゃあ後援会をつくろう」と言ってくれた。そして入団後間もなく、出雲市に「大野投手後援会」が誕生した。
実家に戻り、母にプロ入りが決まった事、広島へ旅立つ事を伝えた。母を一人残して出雲を離れるのは心苦しかったが、母は寂しさや不安は一切口にせず、ただ「頑張ってやりなさい」とだけ言ってくれた。絶対に成功して、母を広島に呼んで楽をさせてやりたい。その思いが一層強くなった。
3月6日、出雲信用組合時代に月賦で買った背広ではなく、広島に着いてから買った新品のジャケットを着て広島市民球場内での入団発表に臨んだ。背番号『60』の入った真新しいカープのユニホームに初めて袖を通したのだ。
(第5回へ続く)
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