◆突然の別れと、まさかの配置転換

 当時カープには同級生の山根和夫や2歳下の北別府学といった力のある若い投手がいたが、彼らをはじめ若い投手の多くは、ドラフト上位で指名されたエリート。だから私はグラウンド上では「俺はテスト入団で入ってきたけど、彼らには絶対に負けない」というライバル意識を常に持っていた。

 プロ4年目の1980年から、前年に引退した先輩サウスポーの渡辺弘基さんから背番号『24』を受け継ぎ、オールスターにも初めて出場した。前年の1979年に続いて、カープはセ・リーグを制し日本シリーズでも近鉄バファローズを4勝3敗で下し2年連続日本一となった。

 ところが連続日本一から間もない1980年11月10日、師匠としてさまざまな事を教わってきた江夏さんが、日本ハムのエースだった高橋直樹さんとの交換トレードでカープを去ることになったのだ。

 しかも私の環境の変化は、それだけでは終わらなかった。

 古葉監督は「今度はお前が江夏の仕事をやれ。ストッパーをやれ」と私にはっきり告げたのである。

 こうして偉大な『優勝請負人』江夏さんの後を、プロ5年目、25歳の私が受け継ぐことになった。

 ところが、まだまだ未熟な私が球界最高の火消し役だった江夏さんの代わりを務められるほど、プロ野球は甘くはなかった。終盤で私が登板して球場内に「ピッチャー、大野」とコールされると、最初に起こるのは拍手ではなく「あーあ」というため息。続いて「お前なんか投げるな」「江夏を出せ」などといったヤジの数々である。

 最初に抑えを務めた3年間は、私の野球人生の中では最も辛い時期だった。 特に忘れられないのは、1981年6月に甲子園と後楽園で2試合連続ワイルドピッチで救援に失敗した事だ。しかしそれで私は、落ちるボールはホームベースを通過した所でバウンドさせるように心がけるようになった。そう注意して練習するうちに、落ちるボールが私にとっての大きな武器となっていった。

(第7回へ続く)

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