1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。

 先発に再転向した1995年、大野豊氏は7勝をマークし投手陣の柱として活躍した。しかし酷使してきた左腕は徐々に悲鳴をあげ、血行障害を発症。一度は手術で改善したが、1998年の再発を受け、ついに大野氏は「引退」を口にする。球団の必死の引き留めで一時は保留としたものの、8月4日、大野氏は投手生命を左右する運命の対決を迎えた。

(『広島アスリートマガジン』2005年3月号掲載記事を再編集)(全10回/第8回)

『カープレジェンドゲーム2025』で登板した大野氏。現役時代と変わらぬフォームでファンを盛り上げた

◆38歳、飛び込んできたメジャーリーグからのオファー

 1991年の日本シリーズでは、西武に雪辱を目指したが3勝4敗で敗れた。この年私は最優秀救援投手となり、2年後の1993年のシーズンが終わる頃、メジャーリーグのカリフォルニア(現アナハイム)・エンゼルスからオファーを受けた。

 年俸は日本とほぼ同じ100万ドル。家や通訳も用意し、家族も一緒という申し分ない条件だったが、私は丁重にお断りした。38歳という年齢と、言葉も文化も違うアメリカで野球を続ける事が自分にはできないと思ったからだ。さらに、若手時代に参加したフロリダ教育リーグでの使用球が、日本よりやや大きく感じて投げにくかったという印象も影響した。

 カープに残留し1994年まで抑えを務めたが、1995年途中から再び先発となった。40歳を迎えるストッパーの私と、先発投手の佐々岡真司の配置を入れ替えるという三村敏之監督のプランにより、この年は先発で7勝した。

 プロ入り20年目となる1996年、私は左腕に異変を感じ始めた。

 『腕は重いし指は冷たい』という血行障害の症状を感じて病院に行くと、担当医から「血管が詰まっている」と言われ、手術を行った。左手に血が通うようになりうれしかったのだが、それは野球選手として以上に、日常生活ができるという喜びの方が大きかった。それまでは歯を磨く事も、顔や髪を洗う事も満足にできなかったのだ。