◆鳥取砂丘に向かって走らされた高校時代

 しかしそれまでの私は、走る事は大嫌いだった。短距離では他の生徒よりも断然速いが、長距離は本当に苦手で、校内でもいつもビリの方だった。そんなランニング嫌いの私に、橋本監督はとても厳しく、毎回タイムを計測され、目標を達成しないといつも怒られていた。学校の中で外野からホームまでずっと走っていたし、校外に出ると近くの鳥取砂丘に向かって走るのだが、砂丘の上を走るのはとにかく足が砂に埋まって思うように走れず非常にハードだった。

 ただ今から考えると、砂丘という自然の環境が、足腰を鍛えるのに実に適した環境だったという気がしている。

 甲子園には最後まで出場できなかった。最も惜しかったのは、2年生の秋に中国大会出場を懸けた秋季県大会の決勝戦で鳥取西高と対戦した時である。創立以来初めての甲子園出場のチャンスと、学校中が異様に盛り上がったが、1対3で破れた。センバツ終了後の地区リーグでは優勝し、最後の夏の県大会は1回戦で青谷高にノーヒットノーランを達成して勝ったが、2回戦で倉吉北高に敗れた。

 練習は早朝からあって、夜も21時ぐらいまで練習があった。私の家は同じ鳥取市内でも、学校からはかなり遠く片道だけで1時間30分はかかっていた。そんな環境で厳しい練習を最後までやり遂げられたのは、毎日送り迎えをしてくれた父親の存在がかなり大きかった。本当に助かったと思っている。

 私が卒業してから橋本監督は「お前のフォームなどをいろいろ触って、俺の理想のピッチャーにする事が最後までできなかった」と言っていた。確かに私のフォームは粗削りだったが、監督としてもピッチャーとしての素質を感じてくれていたのかも知れない。

(第2回へ続く)

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