1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。

 3度の最多奪三振に輝き、その速球とカットボールで打者を翻弄したレジェンド左腕・川口和久氏。1984年にはメジャー球団との対戦でも登板し、その名を広く世界に知らしめた。そんな川口氏が、武器であるストレートに加えカットボールを習得した裏側には、実は「野球人生が終わる」という危機感があったという。

(『広島アスリートマガジン』2005年5月号掲載記事を再編集)(全8回/第5回)

現役時代は1987年、1989年、1991年と3度の最多奪三振に輝いた川口和久氏

◆カットボールをマスターし、奪三振王とリーグ優勝に輝く

 1984年に阪急と対決した日本シリーズで、私は第6戦にKOされたが、最終戦で山根和夫さんが完投し、カープは4年ぶりの日本一に輝いた。そして前年度ワールドシリーズ王者のボルチモア・オリオールズとの『日米決戦』に臨んだ。

 古葉竹識監督は後楽園球場での第1戦に私を先発に起用し、「この試合はお前に任せる」とまで言ってくれた。意気に感じた私はオリオールズを完封して1ー0でカープが先勝した。10月下旬のこの日が私はちょうど絶好調で、10個の奪三振はほとんどが高めのストレート。私はバットでもレフト前に決勝打を放った。

 メジャーリーガーを全く輩出していない当時の日本球界のチームが、ワールドチャンピオンに挑む歴史的な対決で、我々カープが先勝した事はとても大きな意味があった。ただ第2戦以降は力負けし、最終成績は1勝6敗に終わった。

 『夏男』と称されるほど、私は毎年暑くなってから調子を上げるタイプだった。

 その理由は体脂肪率が8%台だった事にあり、肌寒い春先よりも暑くなってうっすら汗をかいたぐらいの方が調子が良くなってきた。

 また後半が得意なのは1試合9イニングの中でも同じで、いつも立ち上がりよりも70〜80球からが球威もコントロールも上向いてきた。だから100球を超えても疲れを感じた事はほとんどなく、200球近く投げての完投勝利もあった。

 私は『先にマウンドを降りたら負け』と信じて、コーチがマウンドに来ても「絶対代わりません」と答えていた。