大学時代に頭角を現し、2002年のドラフト自由獲得枠で阪神に入団した江草仁貴(ひろたか)。2005年にはロングリリーフもできる中継ぎ左腕として、チームのリーグ優勝に貢献した。

 2012年からは地元球団のカープに移籍。紆余曲折を経て、そのキャリアを広島で終えた男の野球人生に迫る。

2017年に現役を引退した江草仁貴氏。現役最後の試合では、カープのみならず阪神の選手からも胴上げされた。

◆「東出がいなかったら、僕はきっと復活できていなかったでしょう」

 これまで僕の野球人生の話をさせてもらいましたが、今月号で最終回となります。いよいよ本格的にカープ時代を振り返ってみようと思います。僕は広島県福山市出身ですから、カープ移籍で故郷に帰ってくることができたのは幸せでした。しかも野村謙二郎選手にサインをもらい、佐々岡真司投手の下敷きを使っていたほどのカープファンの少年でしたから、移籍もポジティブな気持ちで捉えていました。

 2012年3月にトレードでカープにきたわけですが、練習も一生懸命やっているし、元気なチームということもあり、まさにイメージ通りのチームでした。移籍1年目は一軍で26試合に登板できましたが、翌年以降は苦しい時間を過ごすことになります。左肘を痛め、トミージョン手術を受けることになったのです。手術は2013年5月のことで、翌年の契約も不透明だっただけに不安もありましたが、手術するしか選択肢はないと考えました。

 ただ、そこからは本当に苦労の連続でした。球を投げることができず、リハビリばかりの日々です。気が滅入りそうになったこともありました。『なんでこんなに苦しいことばかりをするのか』と思ったことも一度ではありませんでした。試合に投げられないどころか、球も投げられない。しかも、復活できるのかどうかも自分では分からない。本当に苦しい時期でした。

 当時の支えとなっていたのは、チームメートの存在です。特に、同学年の東出輝裕(現二軍打撃コーチ)は大きかったです。彼も同じ時期に故障をしていてトレーニングルームで多くの時間を一緒に過ごしました。僕ら2人が一番乗りでやってきて、リハビリをしながらお互いを励まし合ったものです。本当にその時はいろいろな話をしました。あのとき、東出がいなかったら、僕はきっと復活できていなかったでしょう。それに後輩の中﨑翔太も僕の中で大きな存在でした。彼も同じ時期に、指の故障により三軍でリハビリを行っていました。中﨑も練習熱心な選手ですから、彼の姿は僕の支えになりましたし、刺激もたくさん受けました。

 そして翌2014年は一軍に復帰し8試合に登板、クライマックス・シリーズに登板することもできて、野球ができる幸せを実感しました。特に、復活したときにトレーナーから声をかけていただいたことがうれしかったですね。先が見えない不安からリハビリ中にイライラしてしまった時期もありましたが、当時の自分と真剣に向き合ってくれた人に復活を喜んでもらえたことはとても幸せでした。

 ただ2014年から2016年までの3シーズンで、一軍登板は18試合。登板機会を増やすことはできませんでした。そして、2017年、1年を通してファーム生活が続いたことで引退を決意しました。ただ引退を決断した後も練習に一生懸命取り組んだり、ベンチでも大きな声を出したり、そういうことは最後まで貫いたつもりでした。