2020年限りで、19年の現役生活に幕を下ろした石原慶幸。時間がかかると言われるポジションながら、プロ2年目から100試合以上に出場。そこから激しいライバル争いを制し、カープの正捕手として長らく投手陣を支え続けた。ここでは早くから一軍に定着し、扇の要としてチームを牽引した石原氏のプロ生活の中で2002年から2007年までを振り返る。

2002年のキャンプ。オープン戦初スタメンマスクを告げられガッツポーズで球場を後にするプロ1年目の石原慶幸選手。

◆経験が重要視される捕手でもプロ2年目で100試合以上出場

 2001年のドラフト会議では、社会人・大学生から2名以内を、ドラフト会議前に獲得できる“自由獲得枠制度”が新設。高校生では甲子園で最速154キロをマークした寺原隼人(日南学園高)が目玉選手として大きな注目を集めていた。

 そんななかカープは独自路線を貫き、自由獲得枠制度を使用せず、浦和学院高の大竹寛を単独指名。この年のカープのドラフト4巡目で指名されたのが東北福祉大の捕手・石原慶幸だった。大学2年時からレギュラーとして活躍していた石原は、3年時の2000年に全日本大学野球選手権での準優勝に大きく貢献。他球団も注目する逸材だったが、スカウト陣の熱意が通じ、見事カープが獲得する運びとなった。

 

 当時のカープは2001年から8年ぶりに監督に再登板した山本浩二監督のもと、新井貴浩(1998年ドラフト6位)、東出輝裕(同年ドラフト1位)などの若手が着実に実力をつけ、徐々にチームの若返りが図られていた。捕手に目を向けるとベテラン・西山秀二の後を継ぐ存在として木村一喜(1999年ドラフト2位)、倉義和(1997年ドラフト5位)など次世代の正捕手候補たちがしのぎを削っていた。

 
 

 大きな期待をかけらた石原だったが、1年目は一軍試合出場は5試合にとどまり、二軍での下積みが大半となった。この年存在感を示したのが、プロ3年目の木村一喜。規定打席見到達ながら、100試合以上に出場し打率.314を記録した。

 しかし、石原は2003年に一軍定着を果たし、116試合に翌2004年に正捕手には座を奪取。経験がものを言うポジションながら、高い守備力を武器に一気に頭角を表すこととなった。若くして順調にキャリアを重ねていった石原だったが、2005年から倉義和とのレギュラー争いが勃発。新たにマーティー・ブラウンが監督となった2006年以降もそのライバル関係は続くこととなった。

 
 
 

 しかし2005年からは倉との間に熾烈なレギュラー争いが勃発。ブラウン監督体制に移り変わった2006年も、このライバル関係は続くこととなった。2005年から、石原自身の出場試合数は100試合を割るなど、共に一歩も譲らぬ激しい争いが繰り広げられていた。

(part2に続く)