今もなお聖地として多くのカープファンが訪れる旧広島市民球場跡地。今回は、かつて2008年に広島アスリートマガジン上で連載していた『嗚呼、我が広島市民球場』を掲載。カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちの思い出をご覧いただこう。(表現、表記は掲載当時のまま)

数々の名試合が繰り広げられた旧広島市民球場

◆【第1回・阿南準郎】思い出に残っているのはファンからの野次

 広島市民球場が完成したのは、私がカープに入団して2年目のことでした。球場が完成する1年半前に九州の大分からカープに入団したのですが、当時はまだ広島の街は戦後から抜け出せていないような状況でした。そのため、よくそこにナイター球場ができたなというのが率直な思いでした。それから現在に至る、ということで私の野球人生は広島市民球場とともに歩んできたと言っても過言ではありません。

 それまでのホーム球場は広島県営球場でしたが、あの頃は月曜日と金曜日は必ず移動日で、公式戦を消化するために日曜日はダブルヘッダーが当たり前の時代。そのためナイター設備のない県営球場では昼間のうちに終わらせないといけなかったので、選手にとってはとてもきつくて、特に夏場はとても大変でした。そのため、ナイター設備のある広島市民球場ができた時は、ダブルヘッダーを夜にできるという自分勝手な気持ちが先にありました。もちろん当時は日本で一番明るい球場だったので、自慢できる球場でした。

 選手時代に思い出に残っているのは、ファンからの野次ですね。今は1〜2万人ぐらい球場に入りますが、当時はそんなに入る事がなかったのでスタンドからの野次が全部聞こえてきました。また当時のカープは弱かったので「野次に動じずプレーできたら一人前」と先輩から言われるくらいすごかった。他の球場で野次られるのはあまり気にならないんですけど、広島市民球場で言われるのが一番堪えました。そして私が関連した大きな事件(※)が、昭和39年に起きてしまい、私のバントがきっかけで試合が中止になってしまったので、とても責任を感じました。

 また時を重ねるごとに広島市民球場は姿を変えていきました。増築したり改築したりとどんどん大きくなっていった印象があります。スタンドから野球を観ることはほとんどなかったので、グラウンドから変わっていくスタンドを見ながら『ああなっているんだとか、こうなったんだ』とか。今では『最初はあそこまでしかなかったのにな』という懐かしさがあります。

 ただ、やっているときは、そんなに球場をまじまじと見ることはありませんでした。初めてゆっくり球場を見たのは初優勝の時ですね。優勝してグラウンドを一周しスタンドに向かって手を振るのは気持ちがいいものです。改めて優勝っていいなと思いました。今までは下を向いていたこともあったのにね。それまでは野次などで打ちひしがれる場所であったところで、みんなが喜んでくれている中に自分もそこにいられた。良いことも悪いことも両方を味わいました。

 そんな広島市民球場が今年で最後ということですが、正直、今は寂しいというぐらいで感慨というのはピンと来ていません。今も公式戦が行われているわけだし、広島市民球場がなくなるっていうことが現実としてはまだ考えられていない。

 ただ、広島市民球場がなくなったときにどう思うのかなと。痕跡がなくなるとすごく寂しいと思います。デビューした県営球場は形こそ変わっても今も残っているので、時々行くと今でも「ああ。初出場はこの球場だったな」と懐かしくなります。そう考えると、高校野球でも草野球でもやっている分にはいいけど、それもなくなったら自分の過去も球場と一緒に全部消されたように感じる。跡地利用についてはまだ決まっていないけど、球場のどこかは残してほしい。いつ行っても「ここがこうだったんだ」と、誰でもあの頃を懐かしむことができるように。

(広島アスリートマガジン2008年5月号より)

※1964年6月30日阪神戦。2回無死一二塁で阿南のバンドが投手前の小飛球になり、前進した投手は直接捕球したかに見えたが、主審はフェアの判定。しかし阪神側は球を一塁から二塁へ転送し抗議すると、主審が判定を覆し三重殺成立とした。これにカープが2時間半の猛抗議を行った末、『中止試合』と決まったため約1,000人のファンがグラウンドになだれ込んだ。

阿南準郎●1937年9月2日生まれ 佐伯鶴城高から56年にカープ入団。70年に現役引退後3年間の近鉄コーチを経て、74年広島に復帰。コーチ、監督を歴任し5度の優勝に貢献した。88年オフに勇退後フロント入りし球団部長を務めた。