今もなお聖地として多くのカープファンが訪れる旧広島市民球場跡地。今回は、かつて2008年に広島アスリートマガジン上で連載していた『嗚呼、我が広島市民球場』を掲載。カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちの思い出をご覧いただこう。(表現、表記は掲載当時のまま)

数多くの感動をカープファンに与えた旧広島市民球場

◆【第5回・野村謙二郎】

 入団発表を終え、初めてグラウンドを見た時には「俺もここでプレーできるんだ。早くユニフォームを着てこのグラウンドに立ちたい」と強く思いました。そして、それから17年間プレーした広島市民球場には数え切れないほどの思い出が詰まっています。1991年の優勝や2000安打達成、そして引退セレモニー。もちろん良い思い出ばかりではなく、エラーをしたり、全然打てなかったりといった苦い思いもたくさんしました。古い言い方かもしれませんが、この球場で血と汗と涙を流してきたのです。実際に怪我をして血を流し、悔し涙も流してきました。そういった選手たちの一挙手一投足全てのプレーを見守り続け、そして目に見えない力を選手たちに与えてくれていた球場だと思います。

 最も印象に残っているのは、やはり入団3年目の初優勝です。シーズンも終盤になり、多くのカープファンが集まる広島市民球場で優勝を決めたいという共通意識が選手全員にありました。そのため、ダブルヘッダーの初戦に敗れ臨んだ2戦目は、勝たなければ優勝を決められないという異様な緊張感に包まれていました。1点リードの最終回に大野さんが最後の打者を三振に仕留めて優勝が決まった瞬間は、喜びよりもプレッシャーから解放された気持ちが先に出ました。優勝決定直前の記憶があまりないほどの緊張感に包まれていましたから。ただ、キャンプから厳しい練習を積み、コーチ陣から怒られながらも懸命にプレーしてきた辛い思いもあの瞬間に全部吹き飛びました。「こんなに嬉しい瞬間だったら、いくら苦労してもいい」とすら思ったほど感動しました。そしてその後、広島市民球場のグラウンドで行われたビールかけはどこの球団もやっていないですし、今でもあのシーンを見ると、あの頃の喜びが甦ります。

 私は、入団時から「自分のプレーを見て、ファンの方が明日も頑張ろうと思ってくれるプレー」をテーマに掲げてやってきました。街でファンの方に声をかけてもらうことでその思いはさらに強くなり、プレーで恩返しできればと強く思うようになりました。そういった意味でも2000安打という記録を広島市民球場で達成できたことは本当に嬉しく思っています。当然ですが、一番多くのヒットを記録した球場ですし、それまで一番多くの声援をいただいてきたファンのいる球場だったので、『節目となる1本は地元・カープファンの前で』という強い気持ちがありました。引退試合もそうでしたが、私のために多くのファンが球場に詰め掛けてくれたということは、自分のやってきた野球がファンにしっかり伝わっていたんだということが分かり、嬉しくなりましたし、感動しました。そういったファンの存在は私の人生の財産となり、ずっと胸の中にあります。

 広島市民球場は、カープ選手、カープOBにとっては家のようなものです。完成から51年目。老朽化が進んでいるとはいえ、その家がなくなることはとても寂しいものです。

 それでも選手の立場から考えると、ロッカーや相手のベンチ、控え室などが狭いことに負い目を感じることもありました。本気ではないにしろ他球団の選手などから球場の愚痴や小言を言われると、自分たちの家を馬鹿にされているようで悔しい思いをしてきたのです。しかし来年には新球場ができるので、選手たちはそのことに感謝しなければいけません。新しい家へと引っ越すというだけで、これまでカープが築き上げてきたものはしっかり受け継いで、新球場でも誇りを持ってプレーして欲しいと思います。

(広島アスリートマガジン2008年10月号より)

野村謙二郎●1966年9月19日生まれ
1989年に駒澤大学からカープに入団。3年目には優勝に貢献。その後も走攻守3拍子揃った選手として一時代を築いた。2005年には球団史上3人目となる2000安打を達成し、同年引退。