大瀬良大地が右肘手術の影響を感じさせることなく一軍の舞台に戻ってきた。かつて大瀬良と同じ背番号『14』を背負った津田恒実氏も、故障から再起し輝きを取り戻した選手の一人だった。ここでは不定期ながら、不屈の精神で一軍の舞台に返り咲いた赤ヘル戦士のカムバック劇を振り返る。

1993年、津田氏は脳腫瘍のため32歳の若さで逝去。その後『津田プレート』が旧広島市民球場に設置され、本拠地移転に伴いその後はマツダスタジアムに設置された。

◆ストッパー転向で完全復活

 ルーキーイヤーから11勝を挙げて新人王を獲得するなど、先発として活躍した津田恒実(1984年までは恒美)。ところがプロ2年目の後半からルーズショルダーに併せて中指の血行障害で思うような投球ができず登板機会が減少した。

 思うように力が入らない血行障害が致命傷となっていた津田は、世界初となる中指の靭帯摘出手術を決断。失敗すれば選手生命が絶たれる手術だったが、無事成功に終わり復帰後の1986年からはストッパーとしてフル回転の活躍を見せた。

 この配置転換は功を奏し、登板時には150キロを超える勢いのある直球が復活。49試合に登板して防御率2.08、22セーブ を記録した。またリーグ優勝に貢献する活躍により、カムバック賞の表彰も受けている。

 座右の銘は『弱気は最大の敵』。圧倒的な投手力でV5を達成した1986年、苦境に立たされても決して下を向かない“炎のストッパー”が誕生した。