背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

球団野手では1984年の小早川毅彦以来、二人目となる新人王に輝いた梵英心氏。

 今回取り上げる背番号『6』は基本的に内野手、外野手にあてがわれているが、唯一、捕手として背負ったのが1955年入団の川原政数だ。川原は地元の尾道商高を経て入団し、門前眞佐人の後継者となりえる強肩の捕手として期待されたが、腰椎分離症を始め故障に悩まされ、正捕手を務めるのができたのは1シーズンのみ。1964年限りで背番号を『30』に変更し、翌1965年に現役を引退。その後はカープに残りコーチやスコアラーなどを歴任した。

 その川原と入れ替わりに『6』を着けた外野手の佐々木有三が1シーズンで引退すると、1966年からは『48』だった今津光男が『6』に。今津は前年の1965年に中日から移籍。後の名将・古葉竹識と二遊間を組み、1968年には球団初のAクラス入り(3位)に貢献した。カープには9年在籍し、1974年以降は阪急、日本ハムを渡り歩き1976年限りで現役を引退した。

 1974年は空き番となった『6』だが、翌年以降はしばらく外国人助っ人の背番号となった。1975年にカープに“赤”を持ち込んだジョー・ルーツ監督の声掛けで入団したホプキンスが新たに背番号『6』を背負ったのだ。

 ホプキンスはこの年130試合に出場し、33本塁打、91打点と活躍。球団初のリーグ優勝を決めた10月15日の巨人戦(後楽園球場)では、8回表に初優勝をグッと引き寄せる3ランをライトスタンドに突き刺した。

 値千金のこの一発は、カープ歴代助っ人が放った本塁打の中でも特に印象深い。カープに2年在籍した後、南海で1シーズンプレーして現役を引退。その後は医師を志し、整形外科医として活躍。2013年5月には広島で行われた学会で来日し、対楽天戦で始球式のマウンドに立っている。