◆昭和黄金期の優良助っ人が継承

 ホプキンスの後を受けて『6』を背負ったのが、1977年にカープに入団し、山本浩二や衣笠祥雄とクリーンアップを形成したライトルだ。往年のファンにはウグイス嬢の「3番、ライト、ライトル」という場内アナウンスの声が忘れられないことだろう。

 ライトルは1978年から4年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞した守備力だけではなく、シュアな打撃で何度もチームを勝利に導いた。在籍年数は、外国人選手ではエルドレッドに次ぐ長さとなる6年。カープでは外国人最多となる764試合に出場し、昭和の黄金期を支え続けた。

 1982年限りでライトルが南海へ移籍すると、阪急から来た加藤英司が1年だけ着けた後、1984年からはドラフト2位入団の小早川毅彦の時代となった。

 法政大で4度のリーグ優勝に貢献した小早川は、早くから1983年ドラフトの目玉選手として注目を集めており、山本浩二、衣笠祥雄の後継者を求めていたカープに2位指名を受けて入団。1年目から期待に違わぬ活躍を見せた。

 春先から好調をキープし、勝負強い打撃でチームを牽引し、一時は状態を崩したもののシーズンの大半で主軸の3番を任され、4年ぶり4度目のリーグ優勝、3度目の日本一の原動力となった。個人としても球団野手では初となる新人王を獲得。2年目以降も“赤ヘルの若大将”として存在感を見せつけ、山本、衣笠の引退後は4番としても活躍した。

 小早川は1996年限りでヤクルトに移籍するまで13シーズンを背番号『6』でプレー。約30年ぶりに川原の持っていた最長記録を上回った。ヤクルトに移籍してからも打撃面で勝負強さを発揮し、1997年のリーグ優勝に大きく貢献。1999年限りで現役を引退するとプロ野球解説者を経て、2006年からカープに復帰し一軍打撃コーチに就任。2009年以降は再び解説者として活躍している。

 1997年からは、前田智徳と同じ1989年に6位指名で入団した浅井樹が受け継いだ。1995年から一軍に定着しており、1996年には規定打席未到達ながら打率.339をマークし、左の代打の切り札としてブレイク。

 同時期に前田、金本知憲ら好打者がひしめき合っていたこともありレギュラー定着はならなかったが、首脳陣からは右の町田公二郎と共にスーパーサブとして高い評価を受けた。2006年の引退後もカープに残り一軍、二軍で打撃コーチ、2013年から2019年までは三軍統括コーチとして後進の指導にあたった。