2001年ドラフト4巡目でカープに入団し、捕手として活躍した石原慶幸氏。25年ぶりの優勝、球団初のリーグ3連覇。記憶に新しい節目の瞬間には、正捕手・石原氏の姿があった。カープ一筋19年のプロ野球人生。悔しさも歓喜も知り尽くした名捕手の野球人生を、数回にわたり石原氏の言葉で振り返っていく。

選手としての転機となったマーティー・ブラウン監督との出会い。

 プロ3年目となる2004年。僕は135試合に出場し、自身初の規定打席に到達しました。試合数だけを見れば順調な歩みにも見えますが、2005年からは先輩の倉さん(義和・現一軍バッテリーコーチ)とのポジション争いという状況でした。オープン戦で指を負傷したこともあり、結果的にこの年は前年を下回る74試合の出場にとどまりました。

 そして山本浩二監督が退任した翌2006年、球団として31年ぶりの外国人監督となるマーティー・ブラウンが監督に就任しました。マーティーはさまざまな面でチーム改革を進めました。その中で僕ら捕手は、投手との相性を考慮した起用法となりました。その流れで黒田(博樹)さんが投げるときは、すでにバッテリーを組んで結果を出していた倉さんがマスクをかぶるようになりました。

 2005年から3年間の倉さんと僕の出場試合数を振り返ると、2005年は倉さんが109試合で、僕が74試合。2006年は倉さんが84試合で、僕が85試合。2007年は倉さんが82試合で、僕が89試合。2004年をピークに僕の出場試合数は伸び悩んでいました。

 当時の気持ちを思い返してみると、悔しいというよりも、自分自身に対するもどかしさの方が強かった気がします。そういったものが重なって、勝手に自分の方からマーティーと距離を取ってしまっていた部分も正直ありました。