毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。10月11日の開催まで1カ月を切った。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。

 本企画では、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語った、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 連載当時にエピソードを話してくれた備前氏は、1952年にカープに入団し、長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後はカープのコーチ、二軍監督を歴任。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わってきた名スカウトだ。

 ここでは、1999年ドラフトで3球団指名の末に、交渉権を獲得して入団した河内貴哉の指名秘話をお送りする。故障と戦いながら16年間プレーし、現在は球団広報として活躍している。

 背番号24を背負った左腕はいかにして獲得に至ったのか? 備前氏の証言から振り返っていく。

レジェンド左腕・大野豊の背番号24を受け継いだ河内貴哉。プロ1年目から一軍で活躍。現役引退後は、球団広報としてチームを支えている。

◆達川監督が見せた「ラッキーストライク」

 カープ史上最高の左腕である大野豊の背番号「24」を受け継いだのが河内貴哉です。187cmの身体から140キロ台の速球と大きなカーブを投げる本格派のサウスポーで、1999年秋のドラフト会議では“高校生の目玉”といえる存在でした。

 中学生時代にシニアリトルリーグで全国大会3位になるなど、早くから好投手として知られ、國學院久我山高1年生の頃から、担当の苑田スカウトがマークしていました。ただ私が彼を初めて見たのは3年生となった最後の夏の西東京大会でした。これは彼が2年生の春に肩を痛め、9月までリハビリに専念していて投げなかった事も関係しています。

 東京では彼のピッチングを2試合見て、うち1試合は八王子まで行きました。第一印象としては、ストレートの速さに加えて、カーブも大きく割れて良かったと感じました。やや細身でしたが身体が大きいので、順調に育てば先発ローテーションに入れる投手になれると感じました。腕の振りやヒジの使い方もほとんど問題はありませんでした。

 ただしコントロールについては、ある程度の不安はありました。走者もなく、打者も下位打線というプレッシャーがほとんどない場面で、いきなり四球を与えてしまう場面を実際に目にしました。また、やや下半身が弱く見えた事と、ステップする前足(右足)が正面よりやや内側になる癖も気になりましたが、私は「身体を鍛えて投げ続けていけば、将来的には克服できるだろう」と思っていました。

 西東京大会は決勝で延長12回の末、日大三高に敗れ、甲子園には行けませんでした。しかし同大会でのピッチングから、カープだけでなく、他球団からも注目を浴びる事となりました。ドラフトでは他球団との競合は避けられず、単独指名での獲得は困難と見られていました。

 特に同じセ・リーグの中日も河内獲得に本腰を入れていて、ドラフト直前には「彼の家族は『中日以外には行かせない』と言っている」という噂が流れた事もありました。しかしカープとしても高校側に挨拶を済ませており、「交渉権を獲得できれば彼は入団する」という感触を得ていたので、指名を回避する気は全くありませんでした。

 そして11月19日のドラフト会議当日を迎えました。河内を1位で指名したのは、この年セ・リーグで優勝した中日とパ・リーグ最下位の大阪近鉄、そして5位に終わったカープでした。

 抽選はウェーバー順で行われ、達川監督は2番目に引きました。そして3球団が一斉に封筒を開けた瞬間、達川監督が封筒の中の黄色い用紙を掲げてガッツポーズをした後、持っていたタバコ「ラッキーストライク」の箱を突き出しました。会場で見守っていた先代の故松田耕平オーナーや我々球団関係者は大喜びしました。会議当初から東京都杉並区の高校で待機していた苑田スカウトは早速野球部関係者に挨拶し、その日のうちに河内本人に「選択確定」の用紙が渡されました。

 我々がご家族の元に挨拶に行くと、お父さんが「拒否するという変な噂が出てしまって、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と私達に謝り、「カープへの入団を前向きに考えます」とおっしゃいました。私は河内本人ともこの時に初めて話をしたのですが、リトル時代から挨拶や言葉使いなどを教育されていたようで、とても礼儀正しい印象だったことを覚えています。