2度目の監督退任後は三菱重工の社員として営業で各地に赴いていた。だが、広島商が低迷期に入り、熱心なOBから声もあり2000年、迫田守昭は55歳にして初めて高校野球の指導者となった。

55歳にして初の高校野球監督生活をスタートさせた迫田守昭氏。写真は広島商業監督時代

 就任したばかりのチームは選手にも恵まれ層も厚かった。それでもすぐに甲子園は届かなかった。

「“これは高校生のレベルではないな”と思うくらい選手個々のレベルが高かったです。でもそれが落とし穴でした。高校野球というのは、個人のレベルが高いからといって必ず勝てるとは限らないと知りました。逆に言えば、力がなくても、技量が劣っていたとしてもなんとか勝っていくのが高校野球だと、私は初めて知りました。いかに選手自身が自分の役割を自覚して、全員がひとつになって力を合わせて、強みを出して相手を倒すことができるかどうかなんです」

 こうした気づきを経て、2002年春にセンバツ甲子園に出場し8強入りを果たした。左投げの一塁手の二塁送球が上手いことに目をつけ、サイドスロー投手に転向させるなど適材適所の配置が功を奏した。

「軸になる選手がいて、その選手を中心に脇役がいるというのが勝てるチームの良さだと思います」と振り返るように、岩本貴裕(元カープ外野手)がエース兼4番打者だった2004年には実に16年ぶりとなる夏の甲子園出場を果たした。

この県大会決勝戦では兄の迫田穆成が率いる如水館に勝利することができたが、それまでは何度も苦渋を飲まされていた。

「兄は私のことなんか何とも思っていなかったと思います。でも私は兄の影響で野球をしようと思ったわけですから、“なんとか追いつき追い越したい。盗みたい”という気持ちでした。したがって、野球の話はしょっちゅうしますが、私は本音を絶対に兄には言いませんでした。自分の思っていることは言わずに、兄が何を考えているかを私自身で盗み取ろうとしていました。でも、なかなかそれもできませんでしたね」

勝てるようになったのはその特別意識を改めたことが要因だった。

「兄と対戦する際には“こうされるんじゃないか。ああされるんじゃないか”と思っていた時期もありました。でも冷静に相手チームを分析したら、“こうすれば大丈夫だ”と、普通のチームと同じレベルで考えていくことによって解消されていきました」

 そして、選手たちの普段の姿勢の大事さも身にしみたという。

「選手の授業態度を見れば普段その選手が何をしているのかということが大体わかります。授業中に寝ているような子はやはり大事なところでは結果を出すのは難しい。監督の前で良いところを見せていても、監督がいないところではちゃらちゃらするような選手も同じ。たとえ人の目が無くてもしっかりやる子が本当に大事な試合の時に力を発揮してくれる。打って欲しい場面で打ってくれる選手はそうした普段の努力をしっかりとしていますね。技術ももちろん大事です。でも、最終的には技術だけではなくて普段の生活や考え方が試合を左右するんです」

 加えて「自分で望んで広商に来た選手たちだったので、乗り越えてくれるだろうと思っていました」と長時間練習や厳しい指導も厭わずチームを鍛え上げたのだった。こうして古豪を復活させ、2007年秋からは広島新庄の監督となるが、そこでは指導方針を180度変えて強豪校へ育てていく。(第3回につづく)

●迫田守昭(さこた・もりあき)
1945年9月24日生まれ。現役時代は広島商業-慶應大-三菱重工広島で捕手としてプレー。その後、三菱重工広島の監督に就任。1979年都市対抗で初出場初優勝を果たす。2000年に母校である広島商業の監督に就任し、2002年春、2004年夏に甲子園出場。2007年に広島新庄の監督に就任すると、春2回、夏2回甲子園出場に導くなど13年間指揮した。2020年3月に監督退任。2022年4月より、福山の監督に就任予定。