2022年の幕が上がった。昨年はカープ、サンフレッチェ共に、思うような結果を残せなかったが、若手が台頭するなど、未来への希望を抱かせてくれる戦いを見せてくれた。また、東京五輪が開催されるなど、スポーツがおおいに盛り上がった一年になったと言えるだろう。

 広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。そこで、昨年特に反響の多かった記事を振り返り、2022年のスタートを切る。

 ここでは、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る。今回は、“カープのセカンド”として印象深い背番号「33」を取り上げる。(2021年4月14日掲載)

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2021年は東京五輪に出場し金メダル獲得にも貢献した菊池涼介。

◆通称“バタボール”を習得してブレイクした投手

 やや大きめの数字の例に漏れず、投手と野手が(交互とは言わないまでも)混在する背番号『33』の歴史。だが最近は野手に傾きつつあるようだ。

 まずは野手の長内孝から始めよう。1975年ドラフト3位で入団した長内は、1978年にウエスタン・リーグで打撃二冠を獲得するなどの成長を見せるも、黄金期のチームにあって長い二軍暮らしを余儀なくされた。努力が実って一軍レギュラーに定着したのは8年目の1983年で、この年を最後に背番号を『9』に変更している。その後は1989年に開幕4番を打つなどの活躍を見せている。

 続いては投手。1985年からこの番号を背負った川端順は、法政大から東芝に進み都市対抗野球大会優勝の原動力となると、1983年にカープからドラフト1位指名を受け入団。『13』を背負ったルーキーイヤーは15試合(先発2試合)の登板でわずか1勝1セーブにとどまったものの、『33』になった1985年、二軍でパームボール、通称“バタボール”を習得したことをきっかけにブレイクを果たした。

 この年は先発、中継ぎ、抑えとフル回転し、45試合の登板で11勝7セーブ、防御率2.72の好成績をマーク。広沢克巳(ヤクルト)、木戸克彦(阪神)などのライバルを抑え、新人王のタイトルを獲得した。翌年もセットアッパーとして存在感を見せ、カープ投手王国の一角を形成した。1992年限りで引退すると、コーチ、フロントとしてチームを裏から支えた。

 1989年限りで川端の背番号が『17』に変更されると、その後に背負ったのが江藤智だ。1988年のドラフト5位で捕手として入団し、当初は『51』を与えられたが、2年目の1990年から『33』に。1992年からは内野手に転向し、翌1993年から三塁の定位置を掴んだ。

 この年にキャリア初の全試合出場を果たし、34本塁打で本塁打王のタイトルも獲得。1995年には39本塁打、106点で二冠を獲得する活躍を見せた。1996年に眼窩底骨折の負傷でやや調子を落とすも長打力は維持し、1999年限りで巨人にFA移籍するまで『33』を背負い続けた。

◆生涯『33』を宣言した菊池涼介

 2000年から2002年の3年間は外国人助っ人も背負っている。2000年に入団したジェフ・ボールがシーズン途中で退団すると、1996年から2年間在籍して2年連続打点王を獲得していたルイス・ロペスがダイエー、米独立リーグを経て復帰。フルシーズン出場した2001年は打率.308、32本塁打、100打点と変わらぬ打撃力を見せたが、翌2002年途中で退団した。

 その後は、引退後に近畿地区のスカウトとして活動する鞘師智也、久々の投手となったが移籍後1年で引退した豊田清を経て、2012年から現在まではドラフト2位入団の菊池涼介が背番号『33』を背負っている。

 類まれな身体能力を生かし“スーパーセカンド”として活躍する菊地は、いずれも日本プロ野球史上最高記録であるシーズン補殺535、シーズン守備率10割(無失策)、8年連続ゴールデン・グラブ賞を達成。守備が特筆されるが、実は打撃でも最多安打のタイトルを獲得。球団歴代1位の犠打数など非凡なものを持っている。

 昨季はシーズンを通して無失策、守備機会連続無失策503というセ・リーグ記録も樹立した菊池は、背番号に関しては生涯『33』で通すことを宣言している。この背番号とともにどこまで活躍してくれるのか、カープファンならずとも注目せざるを得ない唯一無二の存在だ。

【背番号『33』を背負った主なカープ選手】
長内孝(内野手/1976年-1983年)
川端順(投手/1985年-1989年)
江藤智(捕手/1990年-1999年)
鞘師智也(外野手/2003年-2010年)
豊田清(投手/2011年)
菊池涼介(内野手/2012年-)