10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の公表通り苫小牧中央の斉藤優汰を1位で指名。支配下で指名した7選手中4選手が“投手”というドラフトとなった。
ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』を再編集してお送りする。
ここでは、1980年代のカープ黄金期に機動力野球を体現した山崎隆造の獲得ヒストリー。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとしてゴールデングラブ賞を4回獲得。ベストナインにも3度選出されるなど活躍した山崎はいかにして指名されたのか。備前氏の証言から、その裏側に迫る。
◆広島出身の選手を獲得しよう
私がスカウトを務めていた頃は、多くの広島出身者がカープに籍を置いていました。それは当時のドラフトの基本方針が、『地元の選手をできるだけ多く獲得しよう』というものだったためです。市民球団として誕生したカープですから、チームをそして広島を盛り上げるという意味でも、地元選手の獲得には力を注いでいました。
そして、その一人が崇徳高校から入団した山崎隆造です。
私が山崎を初めて見たのは彼が高校1年生のときでした。しかし、その頃はこれといってすごいというものはなく、ごく普通の選手だったと思います。頭角を現してきたのは2年生の秋、3年生が引退して新チームになった頃です。走攻守、三拍子揃った選手としてスカウトの間で評判になったのを覚えています。
走攻守の中で最も優れていたのは守備力です。当時ショートを守っていた山崎は、非常に守備範囲が広く、三遊間の深い当たりでも難なくさばいていました。加えて強肩だったのでそこから一塁へ矢のような送球。今でもその光景が目に浮かぶほど素晴らしい守備でした。
走塁は全国でトップクラスの俊足を誇っていたと思います。そして最後に打撃ですが、バットで球を捕らえるミート力は素晴らしいものでした。立浪(現・中日監督)のようなバットを球に対して最短距離で出すコンパクトな振りから二塁打を狙う。そういうタイプだったと記憶しています。
ただ、身体があまり大きくなかったこともあり、パンチ力には今ひとつ物足りなさを感じました。しかし、パワーというものはプロに入ってからいくらでもつけることができるためそれほど大きな問題ではありませんでした。
また、山崎は3年時にキャプテンとしてチームをセンバツ甲子園大会優勝に導きました。そういうキャプテンシーというものも、私たちカープは大きく評価していました。
そんな山崎に声をかけたのは夏の甲子園大会が終わってからでした。そのときのカープは、内野手の強化が最重要課題だったため、山崎のように広島出身でしかも素晴らしい能力を持った選手は喉から手が出る程ほしい存在だったのです。しかし、学校に出向いたところ、「山崎は東京の大学に進学を希望している」と聞かされました。ですから私たちは何とかして彼を口説き落とそうと必死になったことを覚えています。
何度も電話をしましたし、当時チーフスカウトを務めていた木庭さんと一緒に家に出向いたこともありました。山崎が退部届けを出したと聞けば、直接会って「どうしてもカープは君がほしい。ぜひ来てくれ」とも話をしました。そうしてなんとかドラフトでの指名にこぎつけることができたのです。
カープ入団後、山崎は古葉監督の一言からスイッチヒッターへの転向を決意します。私は山崎から「左でも打ちます」と聞かされたとき、「とにかく叩きつけてゴロを打て。そうすれば、お前の足なら内野安打も出てくる。もし、フライを上げたら罰金を取るぞ」と言って、気を引き締めたこともありました。そしてこの決断が彼の野球人生を成功へと導いたのです。
【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。