今季カープのルーキーの中で唯一、開幕一軍となったドラフト5位の河野佳。3試合に登板したものの、4月21日以降は二軍での調整となっている。

 即戦力投手として期待され入団した河野は、名門・広陵高で甲子園出場を経験すると、卒業後は大阪ガスでプレー。コロナ禍の影響を受けながらも社会人野球で結果を残してプロ入りを実現させた。

 ここでは、即戦力ルーキーにこれまでの野球人生、プロ1年目への思いを聞いた。(取材は3月上旬)

3月上旬に実施したインタビューで思いを語った河野佳投手。

◆野球ができるありがたみ、感謝を忘れるな。心に残る恩師からの言葉

─まず、河野佳投手の野球人生を振り返っていきたいと思います。野球を始められたのは何歳頃からですか?

 「小学2年か3年の頃からソフトボールを始めました。当時は、捕手をやっていて投手はまだやっていませんでした」

─高校は広陵高に進学されました。きっかけはなんだったのでしょうか?

 「プロへの志望がありました。当時広陵高が広島県で一番強い高校だと思っていたので、プロに一番近いはずと思い選びました」

─広陵高の監督である中井哲之監督からは3年間で何を学びましたか?

 「やはり野球の技術はもちろんですが、野球ができるありがたみだったり、感謝の気持ちを忘れずにやれよということはよく言われていました。そういうところは野球人としても、一人の人間としてもすごく学びになりましたね」

─高校卒業後は大阪ガスに入社し、社会人野球でプレーされました。

「高卒でプロということを目標にやっていたので、プロに行きたい気持ちももちろんありました。中井監督たちともいろいろ話をして『いま行ってもドラフト上位ではないだろう』という状況でした。『それなら大阪ガスに進んで、ドラフト上位指名を目指してやるのはどうか?』と言ってもらったので、大阪ガスに進もうと決めました」

─そのタイミングではご自身の中で葛藤などはあったのでしょうか?

 「それは全くなかったですね。悔しい気持ちはもちろんあったのですが、まだまだ自分でも自信もなかったですし、大阪ガスに行って上位でプロに行くというのが目標に変わったので、そこはしっかりと納得して決断しました」

─大阪ガスではどのような1年目を過ごされましたか?

 「1年目の春のキャンプ終わりからコロナが流行りだし、大会もなくなって登板数の機会も減り、アピールの場が少なくなりました。ですがその中でもレベルの高い、高校野球とは違った、社会人野球の壁を感じた1年でした」

─社会人2年目には、JABA(日本野球連盟)主要大会で7試合で6勝0敗、防御率0.21という結果を残し、最多勝、最優秀賞、社会人野球ベストナインの3冠を獲得されました。自分の中では手応えを感じていましたか?

 「それがオープン戦でも結構打たれていましたし……。また、大会となるとやはり1戦目がエースの方が投げて、僕が2戦目という流れでした。世間一般に言われる強豪チームに僕はあまり投げていなかったのですが、良い経験をさせてもらいました」

─社会人野球でプレーする中でプロへの意識に変化はありましたか?

 「高校のときからプロを意識してやっていたのですが、社会人1年目は正直“プロにはいけないんじゃないか”と思っていました。社会人野球で過ごしているうちに、大阪ガスの魅力も感じてきていましたし、このまま大阪ガスで……とも思い始めていたのですが、2年目に結果が出てくる中で、もう一度プロ野球を目指そうかなと思いました」

─社会人時代は河野投手にとってどのような期間でしたか?

 「本当にずっと打たれていたので、このままじゃダメだな、何かを変えなきゃなと思っていました。その上で『どうせやるなら真剣にやろう』と社会人2年目に新たに気持ちを入れ替えて取り組みました。いま考えると変化を求める時間として、僕にとって良い期間だったのではないかなと思います」