“覇気”を代名詞に、15年間カープでプレーした安部友裕。25年ぶりのリーグ優勝、さらに球団史上初の3連覇に大きく貢献し、2022年限りで現役を引退した。

 安部氏が現役時代を語る本連載、今回は一軍定着までに苦戦した2012年〜2015年について振り返る。

2022年限りで現役引退をした安部友裕氏。

◆野球人生のターニングポイントとなった期間

 2012年から2015年までは僕がプロ野球選手として、とても辛い期間でもありました。

 2012年、当時一軍でセカンドのレギュラーであった東出輝裕さん(現カープ二軍コーチ)が中指をケガされたことがきっかけで、僕は一軍に呼ばれました。同学年では、キク(菊池涼介)が入団した年で、新入団選手であるキクに対して首脳陣の視線が向くのは当たり前でした。僕自身結果も残せず、危機感もありライバル視をしていました。当時はショートがメインでしたが、東出さんがケガをされてからは、右投手の場合は僕が出場し、左投手の場合はキクが出るという状況でした。

 2012年は一軍で53試合、2013年は75試合に出場し、ようやくという気持ちもありましたが、振り返って考えると、自分でも実力が伴っていなかったと感じています。なぜなら僕は、このタイミングで“勘違い”をしていて、絶対的な一軍選手でないのにも関わらず“一軍面”をしてみたり……。これは本当に良くありませんでした。もちろん若さゆえのことでもありますが、今思えば当時の僕の振る舞いは反省することばかりでした。

 2013年、チームは16年ぶりとなるAクラスになりました。僕自身は開幕から出場を重ねることができ、結果的に一軍で75試合に出場しました。その中で忘れられないミスがありました。6月28日、甲子園での阪神戦で僕は逆転負けにつながる致命的なミスを犯してしまいました。勝手な思い込みで、投手がバント処理をした際、セカンドに投げてくるとは思わず、送球をキャッチできず落球……それがきっかけで逆転負けを喫してしまったのです。

 当時の野村謙二郎監督は大変厳しい方でしたし、プロの世界では初歩的なミスとして厳しく注意されました。翌年契約はしてもらったものの、僕自身もう“クビ”になってしまうのではないかとまで思っていました。

 2014年は、二軍で盗塁王を獲得しましたが、一軍での出場はわずか3試合。精神的にかなり苦しく、よくあのような精神状態で野球をしていたと思います。やはりメンタルはとても重要です。二軍では思い切ってプレーできていましたが、一軍に上がると、『また同じミスをしてしまうんじゃないか』という気持ちになり、起こってもいないことを考え、本当に野球に集中できていない状況でした。

 ただ、この時期は僕にとってターニングポイントとなる時間でもあり、自分が勘違いしていたことも改めることができたのです。

 僕が二軍に落ちたときに1年先輩のアツさん(會澤翼)から呼び出されたことがありました。今思えば、当時僕は“一軍面”をして二軍でプレーをしていました。大変愚かなことなのですが、アツさんから「安部、ちょっと来て」と言われ、「お前は一軍を経験して、周りはお前の行動、態度を見ているぞ? そんなことを一軍で見てきたのか?」と怒るわけでもなく、本当に優しく話しかけてくれました。「周りは本当に見ているから、お前のその行動が影響することもある」という言葉に我に返り『僕はなんて間違ったことをしていたのか』と気付かされました。

 自らが変わるタイミングは、自らが決断するときです。たとえ何を言われても「うるさい」と思っていては改善することなくそれで終わりです。

 ただ僕はその時『このままではダメだ』と素直に思えました。例えば一人でやるスポーツであれば、自分の行いは自分にしか返ってきませんが、周りに影響するということは、チームプレーとしてあってはならないことです。落ち込むことはあったとしても、周りに悪影響を及ぼすことをしてはいけない。そんなことをしているようでは、プロでは生きていけないと心から思いました。アツさんには本当にいろいろな場面で声をかけていただき、感謝しかありません。

後半へつづく

◆安部友裕(あべ ともひろ)
1989年6月24日生、福岡県出身、33歳。2007年に高校生ドラフト1位でカープに入団。一軍定着までに苦戦したものの、プロ9年目となる2016年に115試合に出場し、25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。翌年2017年には初の規定打席に到達して打率3割を記録。リーグ3連覇に主力として貢献した。2022年限りで現役を引退。通算成績は700試合、打率.264 443安打 25本塁打 160打点 49盗塁。

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