2023年6月16日、カープ球団初の200勝投手であり、コーチ・野球解説者としても愛された北別府学氏が旅立った。“精密機械”と呼ばれる抜群のコントロールでカープ投手王国を支えたエースの訃報に、多くのファン、関係者は悲しみに暮れた。

 ここでは、北別府氏の魂を受け継いだカープの“エース”たちのインタビューを再編集して掲載する。今回は、日米通算200勝を達成した黒田博樹氏の言葉を振り返る。(初出は広島アスリートマガジン2020年6月号)

2016年、マツダスタジアムでの優勝報告会でマウンドに別れを告げる黒田博樹。

◆最後までマウンドを譲らない

 本誌が初めて黒田博樹を独占取材したのは1999年、プロ3年目のシーズン前。自身は前年故障もありわずか1勝。チームは長年投手陣を支えてきた大野豊が引退するなど、世代交代が進んでいた。黒田はそんなチーム状況の中で先発ローテ定着を目指す若手投手の一人だった。

「今は全くと言っていいほど自信はないです。不安の方が大きいです。今はただ毎日毎日を一生懸命してる、という感じです」

 この年、黒田は苦しみながらも先発ローテの一角として5勝を挙げると、翌年にはリーグ最多の7完投を記録するなど徐々に自信を深めていく。『ミスター完投』と呼ばれ始めたのもこの頃だ。

「一人で投げ切るということにすごく充実感もあります。やっぱり試合が始まってマウンドに立ったら、最後まで降りたくないというのはあるんで。先発ならみんなそう思うと思うんで。だから一人で投げ抜いて勝てるというのは、本当に最高ですね」

 2001年、12勝を挙げて自身初の二桁勝利、リーグトップの13完投を記録。完投は黒田の代名詞となった。翌2002年も2年連続二桁勝利を達成すると、2003年には3年連続開幕投手を務めていた当時のエース・佐々岡真司に代わり、初の開幕投手に指名された。そしてこのシーズンを機に、黒田はカープのエースとして周囲に認められていくことになる。

「僕は山本浩二監督に育てられたというか、信頼されて使ってもらえたというのが自分にとって大きかったと思います。浩二さんとの5年間は僕自身、投手として一番成長できた時期でした。起用されれば長い回を投げる、完投する、それが『エースの条件』というような……今とは少し違うかもしれませんが、そうやって起用してもらう中で、エースとしての意識をしっかり持てました。僕自身、気づかないうちに育てられたのかもしれません」

 山本浩二監督時代の2001〜2005年、黒田が5年間で記録した完投数は実に47。エースとして驚異的な数字を記録している。山本監督最終年の2005年には自己最多の212.2イニングを投げて15勝をマークし最多勝を獲得。絶対的エースとして孤軍奮闘し、球界を代表する先発投手となった。

 2006年シーズン中にFA権を取得。カープにとってFAは『主力選手の移籍』という意味合いが強く、ファンにとっても苦い思い出ばかりだ。それだけにエースの残留という願いは、次第に大きなうねりとなっていく。シーズン終盤、旧広島市民球場のライトスタンドには残留を願う巨大横断幕が掲げられた。心を動かされた黒田はオフにカープ残留を表明し、大きな話題となった。

「ファンのみなさんに大きな声援をいただいた10月14日と16日の市民球場があって、その後11月6日にみなさんの前でああいう形(残留会見)で自分の気持ちを言わせていただきました。そういう中で3月上旬に市民球場で先発した時、ファンの方たちが今まで以上にグラウンドの中を見てもらっているなと。感じるものがありました」

 ファンの熱い思いを感じ、低迷するチームでエースとして投げ続けた黒田。翌2007年もリーグ最多完投を記録するなど奮闘したがチームは5位。日本球界を代表する投手となっていた黒田はこの時期、1人の投手としてさらなる高みを目指すべきか、カープに残留すべきかを熟考した。そして2007年11月、悩み抜いた末に涙のFA宣言。メジャーへと活躍の場所を求めた。