2023年6月16日、カープ球団初の200勝投手であり、コーチ、野球解説者としても多くのカープファンに愛された北別府学氏が旅立った。

 “精密機械”と呼ばれる抜群のコントロールで、カープ投手王国を支えたエースが背負った背番号『20』は、北別府氏が現役引退した1994年以降、球団預かり番号として、長く継承する者が現れなかった。北別府氏以来となる背番号『20』を背負うことになったのは、地元・広島出身、2002年の自由獲得枠で入団した永川勝浩(現カープ二軍投手コーチ)だった。

 後にカープの守護神として君臨することになる永川。ここでは、改めて永川氏がカープ入団1年目のシーズンを終えたばかりのインタビューを再編集してお届けする。(2003年12月号掲載)

足を大きく上げる投球フォームは永川のトレードマークとなった。

◆「入団発表してからちょうど1年。今日まで早かったし、長かった気もします」

「今年は最初からガンガン飛ばしましたからね。一軍に入れなければ意味がなかったわけですし。残り2週間くらいになって戦線離脱してしまったのは非常に悔しいけど、来年も今年と同じ気持ちでいきたいですね。そのために今はじっくり腰を治しているところです」

 若手選手の大部分が広島市民球場での秋季練習で汗を流している頃、晩秋の三篠寮(当時)に永川は一人残って、本誌の取材を受けていた。日南秋季キャンプにも参加せず、広島でリハビリに専念する毎日。

「11月中はボールを握らない予定です。12月に入ってひねりの運動ができるようになったら、徐々にキャッチボールから始めようと思っています」

 2002年11月12日、新人王を争った木佐貫洋(当時・巨人)と並んでの亜細亜大にて入団表明の記者会見から、ちょうど1年が経つ。それからの今日までの永川勝浩は、1年間を恐らくそれまでの生涯とは比べ物にならないくらいのスピードで駆け抜けていったに違いない。マウンドでの闘争心剥き出しの表情は当然見られず、穏やかで物静かな本来の素顔で、「駆け抜けた1年」を冷静に振り返ってくれた。

「今終わってみれば、1年は早かったという感じですかね。でも1年間最後まで一軍に居られなかった事を考えれば、1年の長さを改めて感じてしまいます」

 ゴールデンルーキーから新守護神へ。オールスターにも出場し、全国に永川勝浩の名が知れ渡ったに違いない。ただ亜細亜大ではリリーフの経験は少なく、本人も当然先発志望だった。

「入団する時には、もう先発としてではなく中(中継ぎ)だろうなという予感がありました。オープン戦で中継ぎとか、たまに抑えとかやって、そこで手ごたえをつかんだような気がします。自分のフォークがどこまで通用するかという不安もありましたが、オープン戦で結果が出たので(6試合8イニングを無失点で2セーブ)、『何とかいけるのでは』と思うようになりました」

 2003年の開幕2戦目で初登板初セーブ、そして4日後には初勝利。運も勢いも味方につけたように見えたが、3試合目の巨人戦(2003年4月6日、広島)でプロの洗礼を浴びた。

「何日か全然ダメだった日がありましたが、やはり最初の巨人戦が一番こたえました。だってオープン戦を通じて初めて打たれたんですから」

 それでもほぼ1年間を通して活躍できたのは、救援に失敗したその次の登板で崩れなかったことが大きいように思える。4日後の横浜戦(2003年4月10日)を与四球1だけの3奪三振で2セーブ目を挙げ、首脳陣の信頼も回復。4月終了時点で1勝5セーブをマークし「新・守護神」の座を不動のものにしていった。

◆「まずは自分のボールをもっと磨く事。それと1年間故障しない事が大切」

 入団当初から「伝家の宝刀」と称された自慢の2種類のフォークはある程度威力を発揮した。しかしストレートの伸びは今ひとつだった感も否めない。その点を問われると、永川は次のように答えている。

「確かにスライダーは習得中です。でもそれより大切なのは、まずは自分の真っすぐとフォークをもっと磨く事と、1年間ケガをしないようにいられる事が一番ですね。形の上ではラスト2週間ぐらいでの離脱になりましたが、実際には腰に痛みが出てからシーズン終了まで2ヵ月くらいまともに投げられてないので。あと2ヵ月。来年もやっぱり最初から飛ばしていくだろうから、そのためにもオフの生活をしっかりしないといけませんね」

 先発について聞くと「1年間抑えの仕事が出来た時に、改めて希望してみたい」とのことだ。

「『守護神』と呼ばれるからには、9回頭からだけじゃなくて、8回とかでも誰かがピンチになってた時に、そこで出されるくらい信頼されるストッパーになりたいんです。本当にチームが危ない時に出てくるのが、真の守護神だと思いますから」

《プロフィール》永川勝浩
1980年12月14日生、広島県出身
新庄高ー亜細亜大ーカープ (2003 - 2019)2002年・自由獲得枠で入団。
北別府学の引退後、8年間欠番となっていた背番号『20』を受け継ぐと、苫米地鉄人以来となる新人開幕一軍入りを果たす。当時の球団ルーキー史上最多となる25セーブをマークし、その後も中継ぎ、抑えとして活躍。2005年にはセットアッパーとしてチーム最多の登板数を記録した。2018年に現役引退。2020年からはカープの投手コーチを務めている。