1950年1月15日に万雷の拍手と共に産声をあげたカープが、今年で球団創立70周年を迎えた。創立以降は25年にわたり低迷を続けたものの、1975年の初優勝を機にAクラスが定位置に。強豪チームに生まれ変わる一つの要因となったのが、“王国”とも称された投手陣の充実だった。ここでは第一次黄金期を支えた名左腕・大野豊氏の波乱万丈の野球人生を、5回にわたり振り返っていく。

100勝100セーブを達成するなど、現役時の大野氏は先発、中継ぎ、抑えとフル回転。

 私は島根県出身ですが、私が少年の頃はテレビの野球中継は巨人戦しか放送されていない時代でした。王貞治さん、長嶋茂雄さんなど錚々たるメンバーが活躍し、V9を達成していた時期だったこともあり、私にとっては『プロ野球=巨人』というイメージでした。

 一方カープは島根と同じ中国地方の広島に本拠地を置くチームでしたが、創設以来優勝をしていない弱いチームというイメージが正直なところでした。そんなカープが1975年に初優勝を果たしたことで、私の中でのカープに対する印象は180度変わりました。その時期を境にカープへの憧れをはっきりと持つようになっただけに、この1975年の初優勝は私のその後の野球人生おいて、とても大きな出来事になりました。

 実はカープの入団テストを受ける前に、南海ホークス(現ソフトバンク)のテストを受ける話もありました。当時プロ野球と言えば巨人が所属しているセ・リーグというイメージがあったので、パ・リーグの南海に進むイメージがあまり湧かず、お断りしました。

 また同時期にカープの山本一義さんと池谷公二郎さんが出雲市に野球教室のために来られて、当時私が在籍していた出雲信用組合野球部がそのお手伝いをすることになりました。私の高校時代の監督と山本一義さんが法政大出身という共通点があり、山本一義さんから紹介していただく形で当時二軍がキャンプを張っていた呉で入団テストを受けることになりました。

 そして1977年3月8日に入団発表を行い、5月から二軍で実戦登板。そして8月に一軍に初昇格したものの、1カ月間登板がなく、9月4日の阪神戦でプロ初登板となりました。

 この初登板が散々なものでした……満塁本塁打を浴びた上で、1アウトしかとれず、防御率は135.00。今振り返ると、私のプロ野球人生の原点はこの初登板でした。とは言っても、当時はそのように思う余裕など当然なく『プロの世界は厳しいな。これでもう二度と登板はないかな』と思うだけでした。