プロ初登板の舞台で滅多打ちに合い自信を失いかけていた大野氏に、その後の野球人生を大きく左右する出会いが待っていた。プロ2年目の1978年。この出会いがなければ、1980年代のカープ投手陣も大きく様変わりしていたことだろう。今回は、投手王国時代の話を振り返っていく。

江夏氏から指導を受けることで、大野氏はプロ2年目には41試合に出場するまでに成長した。

 私が若手だった1980年代、カープは投手王国と呼ばれるなど実力ある投手が何人も在籍していました。年上の先輩投手はもちろんのこと、同い年の山根和夫、年下の北別府学、川口和久、そして津田恒実……。彼らに対しては仲間意識こそあれど、ライバル意識はそこまで感じていませんでした。というのもライバルはあくまでも自分自身と捉えるようにしていましたし、自分の考え方ひとつでプレーが変わってくると思っていたからです。彼らはそれぞれ素晴らしい強みを持っていましたし、そういう個性豊かな投手たちと一緒のチームでプレーすることができたのは、自分にとってすごく大きなことでした。

 いわゆるカープの黄金時代と呼ばれる時代に現役生活を過ごしていましたが、やはり強いチームをつくれたのはカープ特有の選手を育てる育成術があったから、そして古葉監督が確立したカープ野球というものの存在が大きかったと思います。

 当時はキャンプから厳しい練習を課して、技術もさることながらメンタルも鍛え上げていく、そしてそれを重ねていくことでチーム全体が鍛え上げられていったように思います。カープに受け継がれる言葉として大野練習場の石碑にある『練習ハ不可能ヲ可能ニス』というものがあります。当時の選手たちはその言葉を信じて、みんな頑張っていました。そしてグラウンドでは一人ひとりの選手がチームが勝つために何をするべきかということをしっかりと理解していました。

 カープが強かった時代の思い出として個人的に印象に残っているのは、やはり1991年の優勝です。自分が抑えとしてマウンドにあがり、胴上げ投手になれた瞬間は忘れられません。それまでの優勝も、自分がチームに決して貢献していなかったわけではありませんが、この年は主力としてチームの勝利に貢献していた自負がありましたし、あの年は津田が病気で倒れた年でもありましたから。あの年は、どんな辛い状況になっても『津田の分まで頑張らなければ』と思って自分を奮い立たせることができていました。