2020年育成ドラフト1位で磐田東高からカープに入団した二俣翔一。18歳の青年は広島の地で、支配下登録を目指して日々鍛錬を積んだ。プロ3年目に支配下登録となり、今季は一軍レギュラー争いを演じている。ここでは、一番近くで見守ってきた父・豪良さんに息子の素顔を聞いた。(全2回/第1回)
◆今でも毎日連絡を取り合う。謙虚であり続けてほしい
翔一には2歳頃からボールを持たせて庭で野球をさせていました。私は野球経験者で大変さがわかるので『二度と野球なんかやらない』と思っていましたが、私が野球をするように仕向けた感じもあります(笑)。
私自身、野球を通じて人への接し方や挨拶など、勉強になった部分もあって、そこは翔一にも大切にしてほしいと思っていました。「勉強はできなくても、人間として成長しなさい」と常に言ってきました。翔一には4つ下の妹がいてソフトボールをやっていたのですが、私は娘のほうがセンスがあると思っていました(笑)。今は妹のことも助けてくれたり、思いやりのある子に育ってくれて、とても感謝しています。
小学1年の頃、少年野球の見学に行き「入る」と本人が言ったので、本格的に野球を始めるようになりました。
翔一の幼少期は、いたずらっ子というと、可愛く聞こえますが、とても活発な子でした。私も土日はほとんど父兄コーチとして参加していました。低学年の頃の話ですが、まだ子供ですから集中力もありませんし、同学年との練習も面白くないという時期がありました。ある日、ヒットが打てなくて翔一がヘルメットを投げることがありました。それを私が「野球はチームでするスポーツだ、お前だけでやっているんじゃないからな」と叱ったら……なんと、走って逃げて家に帰っていたんです。『お前それは違うぞ!』と拍子抜けしました(苦笑)。
中学では軟式野球か硬式野球のどちらに進むかの選択となりました。小笠浜岡リトルシニアの監督が知り合いということもあり、6年生の秋頃に体験に行くと、本人は「硬式に行きたい」と言いました。私が硬式野球をやっていて肩を壊した経験があるので、『中学で硬式は早いんじゃないか?』と思うところもありましたが、本人が「上のレベルでやってみたい」と言うので意思を尊重しました。
今の時代、あまり大きな声では言えませんが、小学生の頃まではスパルタにやっていたこともありました。ただ中学の頃、怒った私に対して、翔一がすごい眼で私を見返してきたことがありました。そのとき、『もうこれ以上言ったらいけないな』と感じました。引き際と言いますか『これ以上やると、この子は野球を嫌いになってしまうな』と。
中学3年の頃、「野球を教えてくれてありがとう。野球をやっていて良かった。これからも野球で頑張っていく」と言ってくれたことがありました。自分でも厳しく指導したのは正解だったんだろうかと自問自答することもあったので、素直に育ってくれた翔一に感謝しています。
高校はありがたいことにいくつかの高校からお声をかけていただいていました。最終的に磐田東高に進学しましたが、「山内(克之)監督が、1番初めに声をかけてくれたから」と、このときも翔一自身の意志で進路を決めました。
高校で頑張ってプレーして、11球団から調査票をいただいていました。ドラフトでカープから育成指名をされて、翔一と二人で契約の席に着きました。契約時は尾形さん(佳紀・スカウト)と松本さん(奉文・スカウト)が同席してくださり「君ならすぐ支配下になれるよ」と言っていただきました。
高校卒業後の進路を考える上で、社会人野球や、大学からもオファーはあったのですが、最後はやっぱり翔一が、「育成でもプロに進む」と言ったので、その気持ちを尊重しました。
プロ入りした際に契約金で親孝行を……という話も聞きますが、私は「これからは全て自分のお金でやりなさい」と伝えました。やはりプロになって生活も変わると、付き合いも派手になってくることもあると思います。育成ということもあり、他のドラフト選手に比べると少ない金額だったかもしれませんが、それでも翔一の同級生よりはいただいているわけです。アルバイト経験もなく社会に出るわけですから心配することもありました。
翔一がプロになってから伝えていることは、『謙虚でありなさい。天狗になったら終わりだぞ』ということです。まだまだ少しずつ階段を登っている段階だと思います。今は少しだけ注目していただいているかもしれませんが、結果も出ているとは言えません。「まだまだお前はレギュラーじゃないんだから、人よりやらないといけない。そうでなければ、みんなは認めてくれないし、自分も納得しないぞ」と話をしたこともあります。
やはり、野球人である前に、ひとりの人間としてしっかりしてほしいです。日々の行いが2カ月後、3カ月後に必ず自分に返ってくると思うので、それだけは翔一に大切にしてほしいと思っています。
(後編へ続く)