◆北別府のために改造した、特製『綿抜きミット』
彼とのバッテリーでは楽しさや面白さもすごくありました。相手の監督と野球ができていました。
忘れられないのは、野村克也さんがヤクルトで監督をされていた頃の話です。神宮で対戦したときに、2ボール1ストライクから、サインを見破ったわけではないのですが、フィーリングで『あ、エンドランだな』と感じたことがありました。普通であれば、1つアウトを取れば良いのですが、私は何のためらいもなくウエストのサイン出しました。このとき北別府もウエスト。『3ボール1ストライクになったらどうしよう』という思いはなく、同じ考えだったと思います。その後アウトに打ち取ることができました。そこから彼とは“阿吽の呼吸”になったなと感じたことがあります。ちなみにその試合は、北別府が完投勝利をしたように記憶しています。
北別府は、ブルペンキャッチャーを大事にしていました。
彼は、ブルペンで並んで投げるのがあまり好きではありませんでした。ただキャンプなどでは、流れ作業のようにメニューが進んでいくので並んで投げざるを得ません。シーズンに入ったら、北別府は人と一緒に投げないで、ブルペンでも1人で投げていました。北別府のなかで、そのように決めていたのでしょう。私たちも大体、キャンプ中盤を過ぎるとブルペンで球を受けて、『今年はどうなのか、今年も良い感じだな』という感じで、彼の出来を見るためにブルペンに入っていました。
そんなある時、北別府の球を取っていたら『達川さん、すみません。達川さんに球を受けてもらうのは試合だけでいいですから。練習は結構ですからね』と10球くらいで丁寧に、丁重に断られました。
当時、熊澤秀浩というブルペンキャッチャーがいたのですが、その声と、ミットの音で北別府は気持ちを高めていました。“受けた音”が重要なんです。彼は北別府専用のミットを特別につくっていました。『そのミット、すごい音が出るな』と聞いたら、やはりミットの綿を全部抜いていました。綿を抜くと、ほぼ皮だけになるので、パチンパチンという音が出て、綿が入ると、ボスという、綿が吸収した音が出ます。だから、綿が入っていると乾いたような、鞭のような音はしません。
彼は、津田(恒実)の球を受けたときより、北別府の球を受けたときの方が、手が腫れていました。綿がないわけですから。熊沢は北別府の投球を受けるために、左腕のトレーニングをしていましたし、親指1本で腕立てができていました。
そういう風に熊沢は、北別府の調整をすごくやってくれていたので、試合前にコソッと僕の耳元で、『良い感じですよ』とか『ちょっと、いつもより、調子が悪いみたいですよ』など言ってくれていました。選手としてはあまり大成しなかったかもしれませんが、結果的にバッテリーコーチにまでなりました。
北別府は裏方さんを大事にできる人でした。熊澤がコーチになった後は、今オリックスでヘッドコーチを務めている水本勝己もブルペンキャッチャーを務めていました。彼も北別府の姿を見て育っていったと思います。食事に誘ってあげたり、道具を譲ったりして、よく可愛がっていました。
(後編へ続く)