カープ黄金期にエースとして活躍し、チームを優勝に導いた北別府学氏。現役引退後も愛のある解説で、多くのカープファンに愛されてきた。2023年6月の訃報から2年が経ついま、改めて『精密機械』と称された右腕の足跡を振り返る。
ここでは、入団以来、常に側で北別府氏の姿を見続けてきた左腕・川口和久氏が語る印象的なエピソードを紹介する。(全2回/第2回)※広島アスリートマガジン2023年8月号掲載
◆『釣りに行くぞ』と言われれば、『はい、行きましょう!』
我々が現役の頃、カープは投手王国と呼ばれている時代で、大野さん、北別府さんを中心に、私も投手陣の三本柱としてローテーションが形成されていました。
その投手陣をいつもリードしてくれていたのが、正捕手の達川(光男)さんです。よく達川さんが言われていたのですが『北別府は、ベースのサイドの縁をかすめる横の変化を使う投手。川口は、カーブとストレートの高めを使いながら、縦の変化を使う。大野さんは、横も縦も両方使える投手』だったと。ですから、3人はタイプが違っていたんです。達川さんとしては、それぞれリードがしやすかったとおっしゃっていました。
私が北別府さんと勝ち星で肩を並べられるようになったくらいから、少しずつお付き合いが少なくなっていきましたが、3人の共通の趣味である釣りには、よく一緒に行っていました。
旧広島市民球場から大野寮まで3人で車で行って、寮に車を止めて、その近くのマリーナから一級船舶免許とクルーザーを持っていた北別府さんの船に乗って、宮島沖でラジオを聴きながら夜釣りをしていました。試合の時はライバルという存在になれましたけど、それが終わって『釣りに行くぞ』と言われれば『はい。行きましょう!』と、やはり弟分として可愛がっていただいていました。
そんな北別府さんをすぐ側で見続けさせていただきましたが、やはり学ぶ点が非常に多くありました。
キャンプ中の休日前は300球の投げ込みをするといったことは、今ではカープの伝説みたいな話になってしまいましたが、本当のことだったのです。それまでのキャンプ1カ月での投げ込み量は、だいたい2000球くらいだったのですが、当時コーチを務めていた安仁屋(宗八)さんからは『3000球投げろ』と指令が下りました。
投手それぞれにノルマがあり、これまでのペースで投げ込んでいたら、3000球には到底届かないのです。
ですから、休日前には300球を投げ込んでいましたが、北別府さんは、それ以上に投げ込んでいました。みんなが終わっても1人残って投げていて、フラフラになっても投げる事を止めませんでした。それは本当に壮絶な姿でした。そんな姿を見せられたら、私はもちろん、その他の若い投手も、『もっとやらなきゃ』という気持ちになります。