カープ黄金期にエースとして活躍し、チームを優勝に導いた北別府学氏。2023年6月の訃報から2年が経ついま、改めて『精密機械』と称された右腕の足跡を振り返っていく。

 北別府学氏の葬儀で弔辞を読んだのが、黄金期を支えた同世代左腕・大野豊氏だ。ともに投手王国を築き上げた大野氏が、エース・北別府学の素顔を明かす。(広島アスリートマガジン2023年8月号掲載)

写真は2022年春季キャンプで、『24』を受け継ぐ黒原拓未と言葉を交わす大野氏

◆勝利にかける執念や思いが強く、その姿からいつも学んでいた

 一方で、ユニホームを脱いでプライベートでの北別府は、普通の良い「兄ちゃん」という印象でした。若い頃は彼も私も三篠の三省寮で生活をしており、同じ投手の川口和久も交えた3人で、釣りに行くこともありました。

 私が先発で投げるようになってからは、北別府も川口もチーム内ではライバルのような立場になりましたが、私としては、競い合う相手というよりも、『いかに彼らの持つ良いものを盗んで吸収しようか』ということをいつも考えていました。川口は川口でスタミナのある投手でしたから、参考になる面もたくさんあったのです。

 コントロールの北別府、スタミナの川口。彼らは二人とも、私の持っていない良いものをそれぞれ持っている選手たちだったのです。

 現役中には、北別府も私も沢村賞を受賞しました。ただ、同じ賞を受賞したからといっても、彼の存在はやはり別格だと感じることが多くありました。

 北別府の勝利にかける執念や思いは非常に強く、その姿を見ながら、私も成長しようと感じることのできる存在でした。すべてにおいて私よりも上のものを持っていた投手でしたから、自分自身がいくら勝ち星を積み上げたとしても、私のなかには常に、『カープのエースは北別府だ』という思いがありました。

 私の場合は、先発のほかにリリーフや抑えなど、さまざまなポジションを経験したので、先発一筋だった北別府の立場とは少し異なるかもしれません。そんななかでも、彼は私が投手として認める選手の一人でしたし、『彼には勝てない。けれど、負けないように頑張ろう』……そんな風に感じさせてくれる選手でもありました。

 1991年になると、私は先発から抑えに再転向しました。北別府が先発して、私が抑えでマウンドに上がるという試合も数多くありましたが、その頃には互いにベテランと呼ばれる年齢になっていました。

 北別府は、私が若い頃に抑えをしていた姿を知っていますし、そこから先発に転向して投げている姿も知っています。ただ、抑えに再転向したこの頃の方が、私の投球に対する信頼度は高かったのではないかと思います。