◆球団史上初の200勝を達成
後に北別府はカープ初の200勝投手になりましたが、200勝が近づいてきた1992年は、私に限らず、リリーフ投手たちに相当プレッシャーがかかっていたのではないかと思いますし、『なんとか早く200勝を達成してほしい』と思っていました。
ですから、彼が大記録を達成した7月16日の中日戦で抑えとしてマウンドに上がった時は、私としても、非常に力が入りました。結果的に、私が抑えて北別府に勝ちがつき、200勝を達成しました。球団史上初の200勝投手の、その記念すべき200勝目の試合を私が抑えて達成できたというのは、素直にうれしかったですし、印象に残っています。
試合後に「ぺー、おめでとう」と声をかけたら、「迷惑かけましたけど、本当にありがとうございました」と笑顔で答えてくれたことを覚えています。その頃には北別府自身も、若い頃のような気の強さではなく、一人ではここまで来ることはできなかったという、周りへの感謝の気持ちを強く持っていたように思います。
北別府の最大の武器は、彼の精密なコントロールでした。そして、スピードのことを言われると機嫌を悪くする。そんなところも北別府の一面でした。
「大切なのはスピードではなくコントロールだ」と言い切っていた選手が、その投球で球団史に残る勝ち星をあげたわけです。
今、野球をやっている子どもたちで、プロ投手の投球の真似をしている子がいるなら、私は迷わず「北別府の投球を真似しなさい」と言うでしょう。そのくらい、理想的な体の使い方ができる投手でした。投手としての経験、性格も踏まえて、私にとっては手本になる存在であったことは間違いありません。
カープという球団で北別府に出会えたことで、私は野球人として、投手として成長させてもらえたと感じています。もちろん、江夏豊さんを始めとする先輩方もたくさんいらっしゃいましたが、同世代で、自分にプラスになるような存在に出会えたことは幸せなことでした。良い意味で私の野球観を変えてくれたのが北別府という投手であり、その後、私が投手として長くプレーすることができたのも、彼との出会いによるものが大きかったと思っています。今でも感謝の気持ちでいっぱいですし、「ありがとう」と伝えたいです。
本当は病を乗り越え元気になった北別府ともう一度会いたかったのですが、それも叶わずして逝ってしまったことは残念でなりません。津田恒実が亡くなった時もそうでしたが、あれだけの活躍をした投手ですから、多くのカープファン、プロ野球ファンの方々が、いつまでも彼の勇姿と精密なコントロール、そして、あの綺麗な投球フォームを覚えていてくれることだと思います。もちろん私自身も、北別府から学んだことや、マウンドに立つその姿を忘れることはありません。
いつか天国で北別府と再会できるように、これからも精進して頑張っていきたいと思います。
「本当にありがとう」
北別府には、何度でも、そう伝えたいと思います。
■大野豊(おおの・ゆたか)
1955年8月30日生、島根県出身
1977年に出雲市信用組合からテスト入団を経てカープに入団。中継ぎとして台頭し、1979〜1980年はカープの2年連続日本一に貢献した。球界を代表する左腕として活躍し、1988年には最優秀防御率に輝き、沢村賞を受賞。現役引退後は、1999年、2010〜2012年にカープで投手コーチを務めた。通算148勝100敗138セーブ。現在は野球解説者として活動中。